弘化元年(1844年) | ||
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豊熈 | 三月一日 | 医学館を新築する |
九月一一日 | 家中の士から人を選び下曽根金三郎から西洋砲術を学ばせる | |
一〇月 | 吉田東洋・青木忠蔵・久徳安左衛門、済農倉建設案を山内豊熈に建白 | |
一一月 | 医業者の師家や住居などの登録をおこない諸制度を定める | |
弘化二年(1845年) | ||
豊熈 | 八月二三日 | 吉田東洋、時事五箇条と題する意見書を提出 |
弘化三年(1846年) | ||
豊熈 | 一月 | 山内豊熈、教授館の告志文を作成 |
三月 | 帯屋町に武芸所を設ける | |
七日 | 山内容堂、連枝南屋敷の家督を継ぐ | |
一〇月 | 山内豊熈、医学館を沢流館と改称 | |
弘化四年(1847年) | ||
豊熈 | 二月五日 | 異国船からの防衛のため海岸部署を定める |
一一月一一日 | 馬淵嘉平、五十九歳で獄中に没する | |
嘉永元年(1848年) | ||
豊惇 容堂 | 七月一〇日 | 山内豊熈、三十四歳で没する |
九月六日 | 豊熈実弟 豊惇、第十四代目の土佐藩主となる | |
九月一八日 | 山内豊惇、二十六歳で没するも藩は幕府に対し喪を秘匿する | |
一二月二七日 | 山内容堂、第十五代目の土佐藩主となる | |
嘉永二年(1849年) | ||
容堂 | 一月四日 | 山内容堂、山内豊範を養子とする |
二月一八日 | 山内豊惇の喪を公表 | |
嘉永三年(1850年) | ||
容堂 | 五月一五日 | 五ヶ年省略令を布告する |
六月 | 山内大学、教授館総裁を辞退 | |
九月一一日 | 山内容堂、三条正姫(公家三条実万の養女)と結婚 | |
一〇月 | 下田浦の医師広田玄又、領内にて初めての牛痘を施す | |
某月 | 武市半平太、道場をかまえ弟子の取り立てを始める | |
嘉永五年(1852年) | ||
容堂 | 七月一一日 | 漂流民中浜万次郎、土佐ヘ帰国する |
八月四日 | 土佐へ柳川藩士大石種昌が来訪し大石神陰流を伝える | |
某月 | 間崎哲馬、江戸より帰国し塾を開設 | |
嘉永六年(1853年) | ||
容堂 | 七月二九日 | 山内容堂、吉田東洋を大監察に挙用 |
八月 | 吉田東洋、黒船来航にあたって外交意見書を起草 | |
九月 | 安岐郡・香美郡・高岡郡に郡奉行を新設、海防を固める | |
一〇月 | 吉田東洋の外交意見書を山内容堂の名を持って幕府へ提出 | |
同月 | 鋳砲所を設置する | |
二〇日 | 山内容堂、小南五郎右衛門を側用役に挙用 | |
一一月 | 江戸浜川に砲台を建設 | |
二八日 | 吉田東洋、参政に就任 | |
安政元年(1854年) | ||
容堂 | 三月四日 | 山内容堂、参勤交代のため高知城下を出立 |
五月二七日 | 琉球船、津呂浦に漂着 | |
六月一一日 | 吉田東洋、不敬の罪により参政を免じられる | |
八月二〇日 | 砲術家田所左右次・画家河田小龍らを薩摩に派遣する | |
九月八日 | 山内容堂、藩政改革の意見書を布告 | |
一二日 | 海防にともない民兵の募集をおこなう | |
一一月五日 | 大地震が土佐を襲う(寅の大変) | |
一二月二七日 | 清国の江南船、岸本沖に漂着 | |
某月 | 郡奉行所の付属として安芸郡田野に郡学校を設立 | |
安政二年(1855年) | ||
容堂 | 三月 | 清国の江南船、浦戸に漂着 |
四月 | 吉田東洋、私塾少林塾を開設 | |
八月 | 長崎の工人本木昌造に依頼した蒸汽船模型を土佐に廻航 | |
同月 | 募集した民兵で勤続十年以上の者に郷士身分の取得を許す | |
一〇月二日 | 江戸を大地震が襲い藩邸等に被害(安政大地震) | |
某月 | 幡多郡中村に郡学校行余館を設置する | |
安政三年(1856年) | ||
容堂 | 六月六日 | 山内豊福、養父山内豊賢の隠居にともない第八代土佐新田藩主となる |
一一月 | オランダ兵術研究のため長崎へ藩士ら留学の許可を幕府に申請 | |
安政四年(1857年) | ||
容堂 | 二月二二日 | 手島八助・下許武兵衛、箱館視察のため江戸を出立 |
四月八日 | 山内容堂、引き続きの江戸滞府を幕府より命じられる | |
六月五日 | 諸士に半知借上令を布告する | |
七月二四日 | 藩内の海防部署を定める | |
一〇月七日 | 山内容堂、福井藩主松平春嶽と知りあい序々に条約勅許・将軍継嗣問題に関与しはじめる | |
一二月二一日 | 吉田東洋、不敬の罪を赦される | |
安政五年(1858年) | ||
容堂 | 一月一七日 | 吉田東洋、参政に復帰する |
二七日 | 山内容堂、条約勅許将軍継嗣問題に関連して福井藩士橋本左内に三条実万あての意見書を託す | |
三月一八日 | 大脇興之助・岡崎喜久馬ら、山内容堂の密使として京都へ出立 | |
五月一五日 | 山内容堂、江戸鍛冶橋藩邸で三条家々来富田織部と条約勅許将軍継嗣問題について面談 | |
六月二一日 | 幕府から大坂警備を命じられる | |
二八日 | 大坂警備のため幕府への出米を免除される | |
七月四日 | 山内容堂、幕府に対し九ヶ条の難題を持ちかける | |
八月二〇日 | 山内容堂、江戸鍛冶橋藩邸で水戸藩士日下部伊三次と密勅降下運動について面談 | |
九月四日 | 山内容堂、密勅の廻達について三条家諸太夫丹羽豊前守と面談 | |
一七日 | 山内容堂、密勅の写と三条実万からの手紙を薩摩藩士有馬新七より受け取る | |
二一日 | 吉田東洋・後藤内蔵助・麻田楠馬ら、山内容堂の朝幕間奔走を憂慮し江戸に出立 | |
二七日 | 国学者鹿持雅澄、六十八歳で没する | |
一一月一九日 | 山内容堂、幕府に隠居願いを提出 | |
二三日 | 坂本龍馬・甲藤馬太郎・川久保為介、水戸藩からの遊説使住谷寅之介・大胡聿蔵らに面談 | |
安政六年(1859年) | ||
豊範 | 一月五日 | 山内豊範、高知から江戸へ向け出立 |
二月二六日 | 山内豊範、山内容堂の隠居にともない第十六代目の土佐藩主となる | |
同月 | 今井貞吉、九州へ視察のため出張 | |
同月 | 種崎の船大工岡宇平らに江戸で西洋帆船の製法修行を命じる | |
三月 | 吉田東洋、補佐の任をあやまったとして小南五郎右衛門・福岡宮内・桐間将監・寺田左右馬・真辺栄三郎ら要職の人々を罰する | |
六月 | 今井貞吉、長崎視察のため再出張 | |
八月 | 沢流館が廃館となる | |
九月四日 | 山内容堂、土佐への帰国を願うも許されず鮫洲の別邸へ移る | |
一〇月一一日 | 山内容堂、幕府から謹慎を命じられる | |
二一日 | 下許武兵衛・岩崎弥太郎、長崎へ視察のため出立 | |
万延元年(1860年) | ||
豊範 | 一月二二日 | 中浜万次郎・山田馬次郎、幕府の遣米使節団に随行 |
二月 | 吉田東洋、武家の格式改正にともない制度改革役場を設ける | |
六月 | 藩用の蔵紙の制度を廃止する | |
九月四日 | 山内容堂、文通と対客は許されないものの謹慎を解かれる | |
六日 | 幕府から大坂住吉に警備用地を交付され、陣営の建設を始める | |
七月 | 武市半平太・島村外内・久松喜代馬・岡田以蔵ら、情勢探索のため西国へ出立 | |
文久元年(1861年) | ||
豊範 | 一月一八日 | 吉田東洋、藩政改革について山内容堂に承認をもとめる |
同月 | 山内豊範、江戸より土佐へ帰国 | |
.三月四日 | 池田寅之進、山田広衛・松井繁斎らを弟の仇として殺害し士格と軽格が対立する(永福寺門前事件) | |
五月 | 後藤象二郎、普請奉行として大坂住吉陣営を落成 | |
六月一三日 | 山内豊資、吉田東洋らの格式改正に反対の意を示す | |
八月 | 武市半平太、江戸で土佐勤王党を結成 | |
九月 | 吉田東洋、法典『海南政典』を脱稿 | |
同月 | 吉田東洋、山内容堂に汽船購入と航海術の必要性を進言 | |
某日 | 武市半平太、和宮降嫁に憤激する久坂玄瑞を諭し幕府老中安藤信正襲撃計画を中止させる | |
一〇月一一日 | 坂本龍馬、剣術詮議を名目に時勢探索へ出立 | |
二三日 | 武市半平太、監察府において時務を進言し挙藩勤王をもとめる | |
一二月某日 | 間崎哲馬、武市半平太と相謀り江戸で時務を偵察 | |
上旬 | 大石団蔵・山本喜三之進、剣術修行を名目に時勢探索へ出立 | |
二二日 | 吉田東洋、山内容堂に改革案数箇条の裁決をもとめる | |
文久二年(1862年) | ||
豊範 | 一月上旬 | 田内衛吉、間崎哲馬と共に武市半平太の意をくみ江戸において時務を偵察 |
二月一四日 | 藩校文武館の上棟式がもよおされる | |
一六日 | 吉村虎太郎、時勢探索のため長州にいたる | |
二七日 | 吉村虎太郎、武市半平太をたずね時勢の切迫を説き脱藩を促す | |
三月一日 | 坂本龍馬、武市半平太をたずね久坂玄瑞の説と京坂の形勢を伝えるという | |
六日 | 吉村虎太郎・宮地宜蔵ら、土佐を脱藩 | |
二三日 | 吉田東洋の主導により芸家制度が廃止される | |
某日 | 武市半平太、檮原にて会見を求める越後浪士本間精一郎に対し河野万寿弥・上田楠次を派遣 | |
二四日 | 坂本龍馬・沢村惣之丞、土佐を脱藩 | |
二七日 | 吉田東洋の主導により諸士の階級制度を改める | |
四月五日 | 吉田東洋の主導により藩校文武館が開校される | |
八日 | 吉田東洋、那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵らに暗殺される | |
同日 | 吉村虎太郎、本間精一郎と共に大坂住吉陣営をたずね福富健次・松下興膳ら藩役人と面談、時勢の切迫を論じる | |
九日 | 土佐勤王党に対し捕縛との風説が流れ同志たちは島村寿太郎宅に集合し大挙脱藩を企てる | |
一一日 | 新おこぜ組、吉田東洋の死と政変によって次第に職を逐われる | |
二五日 | 山内容堂、幕府から帰国・対客・文通を許される | |
二六日 | 山内大学、文武館総裁に任ぜられる | |
三〇日 | 吉村虎太郎・宮地宜蔵、寺田屋事件に連座した身柄を薩摩藩から土佐藩に預けられる | |
下旬 | 弘瀬健太・小畑孫三郎・河野万寿弥、武市半平太と小南五郎右衛門の意をくみ形勢視察のため京坂へ出張 | |
五月二九日 | 山内豊範、言路洞開の令を布告する | |
六月二日 | 掛橋和泉、脱藩を試みるも脱藩用の品を隠されたため進退極り猟銃にて自殺 | |
一七日 | 山内民部、山内豊範に対して在意書を提出し尊王上洛を訴える | |
中旬 | 下許武兵衛、京都より土佐へ帰国し公家三条実美の親書を藩へ報じる | |
二〇日 | 山内豊範、三条実美に対し返書を認める | |
二一日 | 芸家制度を復活 | |
二八日 | 山内豊範、江戸参勤のため高知城下を出立 | |
七月一三日 | 山内豊範、大坂にいたるも麻疹流行のため足止めを余儀なくされる | |
八月三日 | 小南五郎衛門、山内容堂から朝命拝受の許可を得るべく江戸に向け京都を出立 | |
一一日 | 山内容堂、鮫洲の別邸から鍛冶橋上屋敷へ移る | |
一五日 | 山内容堂、将軍徳川家茂に拝謁し今後とも政務についての意見を求められる | |
二二日 | 岡田以蔵・久松喜代馬・村田忠三郎・田内衛吉ら、大坂において井上佐市郎を殺害 | |
二五日 | 山内豊範、土佐勤王党の周旋もあり朝廷から国事周旋・皇居守衛の内勅をうける | |
閏八月上旬 | 武市半平太、山内豊範の名を持って朝廷への建白書を起草 | |
一日 | 武市半平太・平井収二郎・小南五郎衛門・谷守部ら、京都にて他藩応接役に任じられる | |
二〇日 | 岡田以蔵・島村衛吉・平井収二郎ら他五名、京都において本間精一郎を殺害 | |
二二日 | 岡田以蔵・村田忠三郎・岡本八之助ら(?)、京都において九条家諸大夫宇郷玄蕃を殺害 | |
二八日 | 山内豊範・小南五郎右衛門・高屋友右衛門ら、京都河原町長州藩邸をたずね長州藩主毛利敬親と面談し尊攘の義を結ぶ | |
同日 | 武市半平太、三条実美をたずね再度の勅使東下の必要を説く | |
二九日 | 岡田以蔵・清岡治之助・阿部多司馬、京都において目明し文吉を殺害 | |
九月二日 | 樋口真吉・谷守部、朝廷からの密書を肥後藩に届けるため京都を出立 | |
一八日 | 薩長土の三藩主、連名にて攘夷勅使の東下を朝廷に建白 | |
二三日 | 土佐藩志士ら十二名、薩長の藩士らと江州石部宿にて京都奉行所与力渡辺金三郎・同森孫六・同大河原十蔵・同上田助之丞らを殺害(江州石部宿事件) | |
二五日 | 武市半平太、青蓮院宮朝彦に拝謁し徳川慶喜の上京を差し止めるよう面談 | |
一〇月二日 | 薩長土の三藩主、連名にて親兵設置の必要を朝廷に建白 | |
五日 | 山内豊範、御所へ参内し勅使東下の先駆を依頼され天盃を賜わう | |
七日 | 山内容堂、攘夷建議書を携えた長州藩士周布政之助と面談 | |
九日 | 岡田以蔵・千屋寅之助・五十嵐幾之助ら、京都の商人平野屋寿三郎および煎餅屋半兵衛を誅殺のところ生晒しにとどめる | |
一〇日 | 小南五郎右衛門、山内容堂へ朝廷からの勅定を伝えるべく京都を出立し江戸へむかう | |
一一日 | 山内豊範、三条実美ら勅使の露払いとして江戸へ向け出立 | |
一二日 | 武市半平太、「柳川左門」と変称し勅使らと東下、護衛は土佐勤王党の面々があたる | |
一三日 | 平井収二郎、赤穂藩を脱した同藩西川升吉ら十三名を保護 | |
一四日 | 五十人組、山内容堂護衛のため高知城下を出立 | |
二七日 | 山内容堂、御用部屋出座の命をうけ実質的に閣老に準ずる | |
二八日 | 勅使ら一行、江戸龍ノ口にある伝奉屋敷にいたる | |
同日 | 乾作七・手島八助、豊後岡藩主中川修理大夫に問責のため使者として京都から伏見に出立 | |
一一月二日 | 五十人組の面々、伏見において広田章次を殺害 | |
五日 | 山内容堂、長州藩世子毛利定広に招かれるも長州藩士久坂玄瑞らとの間にイザコザを生ず | |
一〇日 | 田内衛吉・檜垣清治・今橋権助ら、小田原にて坂本瀬平を殺害 | |
一二日 | 小南五郎右衛門、山内容堂の使者として毛利定広に拝謁し長州藩士高杉晋作らの横浜襲撃計画を伝える | |
一二日 | 坂本龍馬・武市半平太、久坂玄瑞・高杉晋作らに対し横浜大使館焼討ちの不可を論ず | |
一四日 | 小笠原只八・山地忠七ら、山内容堂の使者として蒲田梅屋敷をたずねるも長州藩士周布政之助が容堂に対して暴言を吐いたため両藩の間に紛争が生じる(蒲田梅屋敷事件) | |
同日 | 依岡権吉・小畑孫三郎ら他二名、他藩士らと元井伊直弼の妾村山加寿江を生晒しに処す | |
一五日 | 河野万寿弥・千屋寅之助ら他二名、長州藩士らと村山加寿江の息子多田帯刀を殺害 | |
一六日 | 五十人組、江戸築地土佐藩邸へいたる | |
一八日 | 蒲田梅屋敷事件にともない土佐尊王派の会合がもよおされる | |
一二月 | 間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太、青蓮院宮朝彦より藩風振興のため令旨を賜る | |
同月 | 平井収二郎、紀州藩を脱した同藩士伊達五郎・横井次大夫らと面談 | |
一日 | 山内豊範、毛利喜久姫(毛利敬親の養女)との婚礼におよぶ | |
四日 | 武市半平太、勅使ら共に饗宴へ出席するため江戸城に上る | |
六日 | 山内豊範、勅使らの京都出立に先駆け江戸を出立 | |
九日 | 坂本龍馬・近藤長次郎・門田為之助、幕臣勝海舟の門人となる | |
一一日 | 中岡慎太郎、松代藩士佐久間象山招聘の内命をうけ信濃国へ出立 | |
一七日 | 坂井与次右衛門、藩邸にて切腹自殺を遂げる | |
一九日 | 山内容堂、松代藩主真田幸教に対し佐久間象山の招聘許可を願う手紙を書く | |
二五日 | 吉村虎太郎、土佐にて獄囚を解かれる | |
文久三年(1863年) | ||
豊範 | 一月四日 | 武市半平太、間崎哲馬らの藩風振興を援護するため京都から土佐へ出立 |
一〇日 | 山内容堂、福岡藩から蒸汽船大鵬丸を借用し江戸を出立 | |
一五日 | 山内容堂、勝海舟に坂本龍馬らの脱藩罪赦免について内諾をあたえる | |
二二日 | 山内容堂、大坂において三箇条の布告をなし土佐勤王党の動きを牽制 | |
同日 | 岡田以蔵ら、山内容堂に招かれた儒者池内大学を大坂において殺害 | |
二八日 | 山内豊範、土佐へ帰国するため京都を出立 | |
某日 | 吉村虎太郎・島本審次郎・小畑孫次郎ら他二名、不敬の行為ありとして間崎哲馬・島村寿太郎より叱責をうけ、危うく切腹となるところを山内兵之助の命により中止される | |
二月一日 | 平井収二郎、他藩応接役を免ぜられる | |
五日 | 土佐藩士ら(?)、鳥取藩士岡田星之助を京都にて殺害 | |
七日 | 中岡慎太郎、臨時に徒目付兼他藩応接密事掛に任ぜられる | |
同日 | 土佐藩志士ら(?)、京都唐橋村里正惣助を殺害し山内容堂が滞在する京都河原町藩邸にその首を投じる | |
八日 | 上岡胆治、武市半平太・松山深蔵らと協議のうえ大坂の鴻池善右衛門から活動資金の強談を計画 | |
一〇日 | 武市半平太、攘夷期限確定のための策を久坂玄瑞らに授ける | |
一四日 | 山内容堂、攘夷実行期限について徳川慶喜・松平春嶽・松平容保らと連署し朝廷へ奉じる | |
二三日 | 武市半平太、土佐勤王党の血判状を山内容堂に示す | |
二五日 | 坂本龍馬、脱藩罪を赦免される | |
同日 | 山内豊賢、四十三歳で没する | |
三月一日 | 上岡胆治、藩風振興や間崎哲馬・平井収二郎ら救解のため武市半平太らの意をくみ土佐へ帰国 | |
二日 | 吉村虎太郎ら、足利氏木像梟首事件にて捕縛された志士たちを救解すべく嘆願書を学習院に提出 | |
六日 | 坂本龍馬・安岡金馬、藩庁から航海術修行を命じられる | |
二四日 | 平井収二郎、田中顕助・大橋慎三ら数名を久坂玄瑞らに紹介し将軍要撃計画に参加させる | |
二六日 | 山内容堂、海防の充実などを理由に京都をはなれ土佐へ出立 | |
四月一日 | 間崎哲馬・平井収二郎、青蓮院宮令旨問題にともない土佐へ檻送される | |
四日 | 武市半平太ら、山内容堂に薩長和解や国事周旋について相談するため京都を出立 | |
一二日 | 山内容堂、高知城にいたる | |
二八日 | 坂本龍馬、姉小路公知の摂海視察に随従 | |
五月二日 | 北添佶麿・能勢達太郎・安岡斧太郎ら他二名、敦賀港より蝦夷地探索へ出立 | |
二〇日 | 姉小路公知が何者かに暗殺され、土佐尊王派の志士たちは犯人の探索に尽力する | |
二三日 | 山内容堂、山内豊範の名において軽格尊王派に対し君臣の義や父子の親をうたった諭告書を示す | |
二五日 | 吉村虎太郎、在国の同志らにあて手紙を記し藩論の奮起を促す | |
六月二日 | 廣井磐之助、坂本龍馬らの援助により棚橋三郎を討ち仇討ちをとげる | |
同月 | 鋳砲用に銅器の供出を藩内に命じる | |
三日 | 武市半平太、山内容堂に対し藩政改革を建言 | |
四日 | 吉村虎太郎・池内蔵太ら、西国遊説に出立 | |
五日 | 長州藩からの使者として大和弥八郎・木梨元之助・阿部弥十郎らが土佐を訪れる | |
八日 | 間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太、「潜上の沙汰」により切腹 | |
一一日 | 長州藩からの使者として佐々木次郎四郎・時山直八らが土佐を訪れる | |
二一日 | 毛利荒次郎ら、下関および九州へ探索のため出立 | |
七月四日 | 豊永伊佐馬、京都四条において殺害される | |
同月 | 松山深臓・島村衛吉・小畑孫三郎ら、藩庁に対し長州の攘夷応援や親兵の選抜などを求める | |
二三日 | 武市半平太、山内容堂に薩長和解案を示しこれを京都に送る | |
二七日 | 長州藩からの使者として山県半蔵・長嶺内蔵太らが土佐を訪れる | |
二九日 | 武市半平太、山内容堂に直諫を試みる | |
八月一七日 | 吉村虎太郎ら天誅組、大和に挙兵 | |
一八日 | 汽船南海を購入し軍艦所を新設する | |
一九日 | 八月一八日の政変にともない土方楠左衛門ら衛士も七卿都落ちに随行 | |
九月四日 | 朝廷より上洛の命が山内容堂に達す | |
五日 | 中岡慎太郎、情勢探索のため長州へ潜行 | |
一五日 | 伊予宇和島藩主伊達宗城の使者として西園寺雪江が土佐を訪れる | |
二一日 | 武市半平太をはじめ尊王派が次々に投獄される(勤王党の獄) | |
二四日 | 吉村虎太郎、享年二十七歳にして大和鷲家谷に戦死 | |
二五日 | 北添佶麿・能勢達太郎ら、雙樹院僧侶如雲を京都石清水にて殺害 | |
一〇月 | 中岡慎太郎、土佐を脱藩 | |
六日 | 薩摩藩老公島津久光の使者として高崎猪太郎が土佐を訪れ山内容堂に上洛を促す | |
一二月六日 | 勝海舟が坂本龍馬らの国元召喚延期を願い出る | |
一三日 | 伊藤善平・田宮造酒助、七卿らの都落ちに随行した土佐藩の衛士らを召還のため土佐を出立 | |
二一日 | 山内容堂、汽船南海にて土佐を出立し京都へむかう | |
二七日 | 山内容堂、京都へ入り日光御里坊を宿舎とする | |
三〇日 | 山内容堂、皇居にて朝政参与を命ぜられる |
(平成某年某月某日識)