元治元年(1864年) | ||
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豊範 | 二月某日 | 坂本龍馬ら、国元召喚延期が認められず脱藩 |
七日 | 津田斧太郎・岩崎甚八郎・武藤清八ら、仏国艦の長州襲に伴い探索へ出張 | |
一六日 | 天誅組に参加した土佐藩志士たち、京都六角獄にて斬に処される | |
二八日 | 山内容堂、病気を理由に京都をはなれ土佐へ出立 | |
三月四日 | 山内容堂、土佐へ帰着する | |
一〇日 | 安岡勘馬、時勢を痛憤し京都加茂川河原にて自刃 | |
五月 | 投獄された尊王派に対する糺問が開始される | |
六月五日 | 京都池田屋事件にて土佐脱藩の志士たちが難に遭遇 | |
同月 | 岡田以蔵、土佐へ護送され着牢、土佐勤王党への弾圧が激化 | |
一〇日 | 麻田時太郎、新選組と巡邏中だった会津藩士柴司に長州藩士と勘違いされ刺傷(明保野亭事件) | |
一三日 | 香美・長岡・土佐・吾川・高岡の五郡の代表者二十九名、藩庁に対し武市半平太らの放免と藩論の転換を求める | |
一七日 | 坂本龍馬、勝海舟へ浪士による蝦夷地開拓計画を告げる | |
七月 | 投獄した尊王派に対する糺問のため監察府の人員が強化される | |
一七日 | 土佐藩および土佐藩志士ら、敵味方にわかれ禁門の変が開戦 | |
同日 | 六角獄の土佐藩志士たち、刑定まらぬうちに殺害される | |
同日 | 樋口真吉、武市半平太らへの寛典などを求め「愚哀雑録恐惶論」と題する意見書を提出 | |
二一日 | 土佐藩志士ら、天王山に自刃 | |
二七日 | 清岡道之助ら独眼龍組、野根山に集い武市半平太らの放免と藩論の転換を訴える | |
二九日 | 小笠原只八が率いる足軽隊、野根山に集う独眼龍組を攻撃 | |
八月二〇日 | 山内容堂、長州藩の使者として土佐を訪れた中村恭太郎に対し高知入りを許さず | |
二二日 | 山内豊範、妻である毛利喜久姫を離縁し城外へ移す | |
九月三日 | 阿波国に抑留されていた独眼龍組の身柄をうけとる | |
五日 | 審理をするまでもなく独眼龍組二十三士を奈半利川原にて斬首 | |
八日 | 山内豊範、大坂へ上り木津川口の警備につく | |
二九日 | 田所壮助、同志らに責まられ三田尻招賢閣に自刃 | |
一〇月 | 文武館において洋式火器の修行が勧奨される | |
七日 | 山内豊範、藩兵を率い大坂へ出立 | |
一七日 | 山内豊範、大坂に至り同地付近の警衛につく | |
二一日 | 坂本龍馬ら、勝海舟の東帰につき薩摩藩に庇護される | |
一一月二一日 | 中島作太郎・中島与一郎・細木元太郎、三人で脱藩をはかるも与一郎のみ失敗し自刃 | |
二八日 | 田内衛吉、獄中にて服毒死 | |
一二月四日 | 中岡慎太郎、「寺石貫夫」と変名し五卿渡海について西郷吉之助と面談 | |
某月某日 | 坂本龍馬ら、関東で黒船を借用すべく奔走 | |
慶応元年(1865年) | ||
豊範 | 一月二日 | 山内豊範、大坂を離れ土佐へ向かい後任には山内兵之助があたる |
八日 | 大利鼎吉、大坂にて新選組の襲撃にあい殺害される(ぜんざい屋事件) | |
一四日 | 土方楠左衛門・中岡慎太郎ら五卿の衛士、五卿らの筑前遷座に随行 | |
二月二二日 | 島浪間・千屋金策・井原応助ら、山陰地方を遊説の途上、美作国で賊と誤認され進退窮まり自刃する | |
三月二三日 | 島村衛吉、獄中にて拷問死 | |
五月一六日 | 坂本龍馬、薩長同盟実現のため薩摩を出立し長州へむかう | |
閏五月一一日 | 武市半平太、享年三十七歳で切腹をとげる | |
同日 | 岡田以蔵・久松喜代馬・岡本次郎、藩士殺害の罪により斬首 | |
二一日 | 中岡慎太郎、下関へ至り西郷吉之助が京都に直行した旨を坂本龍馬らに伝える | |
同月頃か | 坂本龍馬ら、長崎に社中を設立 | |
六月四日 | 山内豊範、再び大坂へ赴き同地の警備につく | |
七月一九日 | 中岡慎太郎・田中顕助ら、坂本龍馬に見送られ伏見から長州へ出立 | |
二一日 | 長崎の社中、長州藩士伊藤俊輔・井上聞多らを長崎に迎え銃器購入の周旋を開始する | |
一〇月四日 | 坂本龍馬、長州藩士広沢兵助・松原音三・小田村素太郎らと面談し薩摩への糧米提供の確約を得る | |
一八日 | 長崎の社中、ユニオン号の受け取りをはたす | |
一一月 | 山内包五郎を総督に銃隊を特設 | |
一二月某日 | 近藤長次郎、井上聞多との間に「桜島丸条約」を結ぶ | |
一四日 | 坂本龍馬、「桜島丸条約」を改定し長州藩士中島四郎と「新桜島丸条約」を結ぶ | |
同月頃 | 中岡慎太郎、『時勢論』を著述 | |
慶応二年(1866年) | ||
豊範 | 一月一四日 | 近藤長次郎、長崎で自刃 |
二一日 | 坂本龍馬、京都にて薩長同盟を締結させる | |
二四日 | 坂本龍馬ら、同日の未明頃に幕使の襲撃をうけるも脱出し伏見薩摩藩邸に匿われる | |
二月五日 | 坂本龍馬、薩長同盟の裏書をなす | |
同日 | 後藤象二郎の主導によって九反田へ開成館を開設 | |
一五日 | 後藤象二郎・小笠原只八、薩摩藩の動静調査のため土佐を出立 | |
二〇日 | 松岡七助ら、藩史の編修事業を開始 | |
三月五日 | 坂本龍馬、妻である楢崎龍と共に三邦丸へ乗り込み出帆、日本初の新婚旅行とされる | |
四月二〇日 | 山内容堂、開成館の開設について諭告書を発する | |
五月 | 火器銃砲の類を全て洋式銃砲に統一する | |
二日 | 池内蔵太、肥前国五島沖にて溺死 | |
九日 | 山本兼馬、太宰府において肺病のため再起不能をさとり後事を同志らに託し自刃 | |
六月一七日 | ユニオン号を操る社中一同、四境戦争において幕府軍との海戦に参加 | |
七月五日 | 浦戸にイギリス船が入港 | |
七日 | 後藤象二郎・中浜万次郎ら、艦船購入等のため長崎へ出張 | |
一〇日 | 一橋家の用人梅沢孫太郎が徳川慶喜の使者として山内容堂に上洛を願い土佐へ来訪 | |
一二日 | 土佐藩志士ら、京都三条大橋において新選組と格闘(三条制札事件) | |
一五日 | 小八木卓助、山内容堂に朝廷からの上洛召命を伝える | |
一九日 | 三条制札事件和解のため新選組の近藤勇・伊東甲子太郎・土方歳三・鈴木三樹三郎・吉村貫一郎ら祇園にまねく | |
二五日 | 中岡慎太郎、薩摩藩士大久保一蔵と面談し四賢侯会議のため土佐藩に上洛を促すよう依頼する | |
九月四日 | 佐々木三四郎・毛利荒次郎・島村寿太郎ら他三名、形勢視察の命をうけ西国へ出立 | |
一〇月 | 藩札(一分・二分・一両・二両・五両の金札)を発行 | |
二六日 | 中岡慎太郎、論策『密に示知己論』を著述 | |
一一月一五日 | 福岡藤次・小笠原只八、山内容堂の上洛延期が許された答礼として京都へ出張 | |
某日 | 中岡慎太郎、土佐藩の兵制改革のため『愚論密カニ知己ノ人ニ示ス』を著述 | |
某日 | 坂本龍馬、薩摩藩士五代才助・広沢兵助らと会見し「商社示談箇条書」を作成 | |
一二月某日 | 坂本龍馬、桂小五郎に溝淵広之丞を紹介し長土の復交をはかる | |
一四日 | 以前に提出していた京都警備解任願いが聞き届けられ幕府よりこれを免じられる | |
一五日 | 門田為之助・高野直猪ら他二名、九州探索に出立 | |
慶応三年(1867年) | ||
豊範 | 一月一三日 | 坂本龍馬・後藤象二郎、長崎清風亭にて会談 |
二月 | 坂本龍馬・中岡慎太郎、脱藩罪を赦免される | |
一七日 | 山内容堂、四賢侯会議実現のため土佐を訪れた薩摩藩士西郷吉之助と面談 | |
二四日 | 山内容堂の上洛にともない参政から布告書が発せられる | |
三月 | 藩札(一朱・二朱の金札)を発行 | |
同月 | 高知城西石立村に鋳銭局を設ける | |
一〇日 | 福岡藤次・岩崎弥太郎ら、坂本龍馬・中岡慎太郎の脱藩罪赦免に関連して長崎へ出立 | |
四月 | 坂本龍馬、社中を海援隊に改変し海援隊々長をつとめる | |
二二日 | 山内容堂の上洛にともない再び参政から布告書が発せられる | |
二三日 | 海援隊が使用するいろは丸、紀州艦明光丸と讃岐箱ノ崎沖で衝突(いろは丸事件) | |
二八日 | 山内容堂、四賢侯会議に出席するため藩船夕顔に乗り込み土佐を出立 | |
五月一日 | 山内容堂、京都河原町藩邸に入る | |
九日 | 小笠原只八、山内容堂から武力討幕の動きを危険視され退京を命じられる | |
二一日 | 中岡慎太郎・乾退助ら、薩摩藩と薩土密約を結ぶ | |
二七日 | 山内容堂、山内兵之助を残し口腔の病気を理由に京都を離れる | |
六月 | 坂本龍馬、後藤象二郎に船中八策を示す | |
二日 | 山内容堂、土佐へ帰着する | |
一三日 | 山本旗郎、水戸藩士住谷寅之介を京都松原河原に殺害 | |
二二日 | 坂本龍馬・後藤象二郎ら、薩摩藩と薩土盟約を結ぶ | |
二六日 | 王政復古実現のため薩摩藩・安芸藩と薩土芸三藩約定書を結ぶ | |
七月 | 藩札(十匁・十五匁・二十匁・二十五匁・三十匁の銀札)を発行 | |
同月 | 兵制改革令を布告する | |
同月 | 藩校での弓術課程を廃止する | |
六日 | 長崎でイギリス軍艦イカルス号の水兵二名が殺害され、海援隊にその嫌疑がかかる | |
八日 | 後藤象二郎・真辺栄三郎、大政奉還策を山内容堂に進言し了承される | |
九日 | 寺村左膳、大政奉還策を山内豊範に伝える | |
同日 | 後藤象二郎・寺村左膳・真辺英三郎ら、藩庁に有司を集め大政奉還策の推進を声明 | |
一七日 | 山内豊範、兵制改革として士格も銃隊に再編成するよう布告する | |
某日 | 海援隊が使用する太極丸の水夫が殺人事件をおこす | |
二九日 | 中岡慎太郎、陸援隊の本格的な結成にともない白川土佐藩邸を本拠地に定める | |
某月 | 中岡慎太郎、大攘夷と討幕を説いた『時勢論』を著述 | |
八月一日 | 坂本龍馬、イカルス号事件について松平春嶽より山内容堂あての手紙を託される | |
六日 | イカルス号事件にともないイギリス公使パークスが須崎へ来航 | |
七日 | 後藤象二郎、全権を委任されイカルス号事件の談判にのぞむ | |
九日 | 山内容堂、イギリス通訳官サトウを開成館に招き会見 | |
二〇日 | 山内豊範、藩内に対し討幕論や攘夷論を唱え人心を刺激しないよう諭告する | |
同日 | 山内容堂・山内豊範、大政奉還策推進について全権を後藤象二郎・寺村左膳に委任する旨を布告 | |
九月四日 | 後藤象二郎、大政奉還の建白にともない京都へ入る | |
一一日 | 田所安吾・島村雄二郎、外国人に傷を負わせるも坂本龍馬の判断により長崎奉行所へ自首 | |
二一日 | 中岡慎太郎、大石弥太郎にあて「兵談」を記し土佐藩の兵制改革を説く | |
二三日 | 坂本龍馬ら、長崎で購入したライフル銃を土佐藩へ回漕 | |
二七日 | 山内豊範、坂本龍馬の帰国にともない重役会議をひらく | |
一〇月一日 | 乾退助、参政職のまま大隊司令に任ぜられる | |
三日 | 後藤象二郎・福岡藤次、大政奉還建白書を幕府へ提出 | |
四日 | 寺村左膳・神山左多衛、大政奉還建白書の写しを公家二条斉敬へ提出 | |
一三日 | 後藤象二郎・福岡藤次、二条城で大政奉還の決定を聞く | |
同日頃 | 坂本龍馬、新官制擬定書を作成 | |
一五日 | 朝廷が幕府の大政奉還を受理する | |
二〇日 | 長岡謙吉、薩摩藩士田中幸助と共に後藤象二郎らの内意をうけ横浜へ出張 | |
二八日 | 坂本龍馬・岡本健三郎、土佐藩の使者として越前国にいたる | |
一一月 | 野中太内ら三十人組、後藤象二郎や乾退助らの政策に反対の意を示し弾劾を訴える | |
六日 | 後藤象二郎、京都政情の報告と山内容堂の上洛要請のため土佐へ帰着する | |
上旬 | 坂本龍馬、新政府綱領八策を起草 | |
一五日 | 坂本龍馬・中岡慎太郎ら、京都近江屋にて刺客の襲撃にあう | |
同日 | 坂本龍馬、享年三十三歳にして絶命 | |
同日 | 山内容堂、王政復古庶政一新を前に藩政の更始一新を宣言 | |
同日 | 上記の藩政一新にともない勤王党の獄で捕らえられた人々が大赦される | |
一七日 | 中岡慎太郎、享年三十歳にして絶命 | |
同日 | 山内容堂・山内豊範、三十人組に対し諭告をおこなう | |
一八日 | 後藤象二郎、第一・第二別撰小隊と共に京都へ出立 | |
二一日 | 後藤象二郎、第一・第二別撰小隊と共に京都にいたる | |
二八日 | 後藤象二郎・福岡藤次、諸公会議と簾前会議の開催について西郷吉之助と面談 | |
一二月二日 | 後藤象二郎、同論だったはずの西郷吉之助と大久保一蔵から小御所会議の開催を伝えられる | |
五日 | 山内容堂、京都へ向け出立 | |
七日 | 海陸援隊士ら、坂本龍馬・中岡慎太郎の仇討のため天満屋の紀州藩士三浦休太郎らを襲撃 | |
八日 | 山内容堂、京都へ入る | |
九日 | 王政復古の大号令により山内容堂が議定に、後藤象二郎・福岡藤次・神山左多衛が参与に任ぜられる | |
同日 | 山内容堂、小御所会議において徳川家の養護につとめる | |
一二日 | 田中顕助ら陸援隊、公家鷲尾隆聚を擁し高野山に挙兵、紀州藩の牽制にあたる | |
同日 | 山内容堂、深尾鼎を使者として朝廷に建白書を提出し公明正大なる論議を求める | |
一五日 | 後藤象二郎・福岡藤次、公議政体に関する具体的な意見書を朝廷に提出 | |
二〇日 | 土佐藩に伏見街道の警備が命じられる | |
二八日 | 山田平左衛門・吉松速之助が率いる第一・第二別撰小隊、伏見方面の警備につく | |
三〇日 | 谷守部、小南五郎右衛門らへ出兵要請のため京都を出立 |
(平成某年某月某日識)