小倉百人一首(以下、本稿では百人一首と略す)は上古より中世初期までの歌人総計百人の短歌を各一首づつ集めた私撰歌集。「小倉百人一首」とは通称で、後世うまれた他の百人一首(「異種百人一首」)と区別するためもちいられる呼び名。もともとは「嵯峨山庄色紙和歌」。「小倉山庄色紙和歌」などと呼ばれ、中世中はやく百人一首と称されれたことが文安二年尭考筆本の内題書名にもみえている。
ちなみに読み癖としては「ひゃくにんしゅ」とも読みならっていたようで、近現代まで割合その慣習もいきていたようである。最近はまず聞かないが丸谷才一『新々百人一首』のはしがきなどにもみえている話しだ。
正確な成立時期はいまだ不明。藤原定家の日記『明月記』文暦二年(1235年)五月二七日条嵯峨中院ノ障子ノ色紙形、故予ニ書ク可キ由。彼ノ入道[宇都宮頼綱、法名は蓮生]懇切。極メテ見苦シキ事ト雖モ憖ニ筆ヲ染メテ之ヲ送ル。古来ノ人ノ歌、各一首、天智天皇自以来家隆・雅経ニ及ブ
の解しかた、有吉保氏による宮内庁書陵部蔵『百人秀歌』の紹介(昭和二六年-1951年-)など、様々な資料を参考に近世から近年にいたっても多様な成立論が展開されている。
まず載録歌についてみた場合、詠作年次の判明するもっとも新しい歌は98番藤原家隆詠で、定家がこの歌を知り『明月記』に記したのが寛喜元年(1229年)一一月一四日条。
百人一首の本書についてみた場合には、文安二年(1445年)冬の尭孝書写本が写本として最古にあたる。
(注釈書のうち、延文四年-1359年-の頓阿跋文をもつ貞信抄『百人一首抄』、応永一三年-1406年-藤原満基署名応永本『百人一首抄』はそれぞれ偽書説も残るため、ここではふれない)。
よって載録歌と伝本の点からいえる百人一首の確実に成立年代は、
ということになり、216年もの幅が成立までに想定される。
詠作者の表記法もふくめて成立を論じるのであれば、順徳天皇(100番詠作者)に諡号が奉献された建長元年(1249年)七月二〇日以降の成立となり、仁治二年(1241年)八月二〇日の定家薨去後のこととなる。
また、伝承としては頓阿の『井蛙抄』(別名『水蛙眼目』、南朝正平十五年・北朝延文五年-1360年-ごろ成立)第六雑談にみえる嵯峨の山庄の障子に上古以来歌仙百人のにせ絵を書て各一首の歌を書きそへられたる
との記事が、成立・享受のうえからも注目される(もっとも、同部分については『井蛙抄』成立後の追補ともいわれ、安易に頓阿談と見なせない問題がある)。
以上から定家を原撰者とみなしたうえで、撰歌のみをもって成立を論じた場合、想定される成立時期は以下の二範囲となる。
さらに現在通行の詠作者表記と96番から98番までの配列(同部分は撰歌当時における生存者出生順ないし生存者官位順と解されるため)をふくめ論じるとまた複雑で、想定される範囲は
入道前太政大臣に着目した場合
従二位家隆に着目した場合
入道前太政大臣と98番
従二位家隆に着目した場合
順徳院)を考慮した場合
といった具合になる。
なお、詠作者表記と配列の関係については久曾神昇氏と井上宗雄氏の論がそれぞれ詳細。井上氏はさらに後鳥羽院
と順徳院
の表記について、転写間における注記本文化の可能性をも指摘されている。
また一方、吉海直人氏は近世初期における版本『百人一首』のなかに、家隆の詠作者表記が正三位家隆
となっている例をあげて、詠作者表記を成立論に持ち込むこと自体に警鐘をならしてもいる。
以上、現時点で確説は在しないが出来るだけ仮説や憶測をはいし、史料にそくして考察をくわえた場合、だいたい上記のような範囲が成立年代として多様に想定されるのではないだろうか。断定にはまだ新史料の発見が必要かと思われる。
中世、撰者については藤原定家説が唯一のもので、『新古今和歌集』撰進のさい複数撰者制ゆえ我が意をえなかった定家が、花実兼備の歌集を目指し編んだものと古注釈ではされている。近世の元禄十五年(1702年)にいたり、安藤為章『年山紀聞』に『明月記』文暦二年五月二七日条を典拠とした宇都宮蓮生撰歌・藤原定家染筆説が登場し、これ以降学者間にも撰者論がポツポツとみえはじめる。
近代の昭和三年(1928年)になると、百人一首最古の注釈が宗祇説『百人一首抄』(通称「宗祇抄」)より以前にさかのぼれないこと、宗祇と同時代に百人一首ゆかりの品々が登場しはじめることなどを勘案して、吉沢義則氏によって百人一首は宗祇が定家に仮託した偽書とする説・可能性が提起された。
戦後の昭和二十六年(1951年)には有吉保氏によって宗祇抄より時代をさかのぼる注釈書応永本『百人一首抄』(通称「応永抄」乃至「満基抄」)が紹介され、宗祇が定家に仮託したかとみる吉沢義則説はほぼ否定されるにおよび、あわせて百人秀歌 嵯峨山庄色紙形 京極黄門撰
(京極黄門は藤原定家のこと)との内題をゆうする歌集『百人秀歌』も同人により紹介された。これにより定家説は史料的にも大きく補強されることになる。
その後、石田吉貞氏・島津忠夫氏・安藤次男氏・有吉保氏・樋口芳麻呂氏・吉海直人氏など諸氏それぞれによって、百人秀歌や他の定家秀歌撰との比較検証が進展し、その蓋然性から定家撰者説は(「応永抄」に偽書説が在する現在でも)通説として認められるにいたっている。
ただし、百人一首・百人秀歌・異本百人一首(百人秀歌配列形百人一首)・小倉色紙の相互関係、詠作者表記の補訂などに問題はのこっており、石田吉貞氏による定家原撰・藤原為家改訂説など、いまだ成立論とからんだ問題がある。
収載歌の構成を各勅撰集の部立ごとに部類すると下表のようになる(アラビア数字は百人一首の配列番号、うち勅撰集に重出する歌三首-20・55・61-は一方をカッコでくくった)。
うえの表をみるかぎり、比較的整然とした部立や組題をゆうする先行の百首歌に対して、百人一首はいささか雑駁とした観が否めない。この点はおおくの撰を共通する『百人秀歌』の識語上古以来歌仙之一首、思イ出ス随イテ之ヲ書キ出ス。名誉之人、秀逸之詠、皆之ヲ漏ス。用捨心ニ在リ。自他傍難有ル不可歟
につうずるものとしても解しえるし、撰者による"部立の置き換え"や”意図的な誤読"(再解釈)を想定することもできるだろう。
百人一首の注釈は中世以来、諸流・学者などのあいだで拠り所や出典となる資料(勅撰集や物語など)解釈によって、様々に説かれることが多かった。しかし戦後近年になると、島津忠夫『百人一首』(昭和四十四年-1969年)あたりを明確な分水嶺として、撰者たる定家の撰歌意識こそが問題視されるようになり、現在(単行本として発売される注釈書の類はともかく)学術的な方向としては単純な詞華集(アンソロジー)としてではなく、一つの独立した文学作品として百人一首を解釈する方向性にあるといえる。
そこで撰歌や配列の特徴として指摘される目立ったものに、以下のようなものがある。
無論、うえの指摘すべてが撰者の意図・構想より出たとは思えないが(結果的にそうなったものも多かろう)、百人一首のもつ作品特徴として記憶されてもいいだろう。
また一方で学術的な流れとはべつに、百人一首をパズル的な手法により読解し、ソコに撰者定家の暗号が隠されているとする説もいくつかみられる(織田正吉『百人一首の謎』・林直道『百人一首の世界』・西川芳治『百首有情』など)。これらの論は発表時に一部の国文学者からも注目され、マスコミの話題にもなったかと記憶するが、いずれも手法には牽強さが目立ち、個人的にはトンデモ論と同等の観がつよい。
百人一首の伝本にはいまのところ鎌倉期書写のものは確認されておらず、その享受史は室町期から始まる。頓阿『井阿抄』第六雑談にみえる記述がそのはやい例で、ついで尭孝書写の百人一首がまず知られる。
中世には撰者定家の権威にもあずかり、古注釈によると二条家の骨肉
(『宗祇抄』)とか和哥の骨髄
(『幽斎抄』)などとされながら「三部抄」・「和歌七部抄」・「詠歌大概抄」などに歌学書の一部として包括され、歌人・連歌師などを媒介に伝播し、茶人のあいだでは「小倉色紙」が名物として珍重もされた。
近世にはいると物合わせやカルタといった文化に素材としても接種され、絵画の方面では中世の歌仙絵以来一つの画題としてひろく認知される。とくに庶民のあいだでは絵入りの注釈書やカルタがその親しみやすさから喜ばれたようである。
やがて注釈の広汎な享受は、嚆矢を中世期にみる「異種百人一首」など類書のほか、生活文化にとけ込んだゆえの狂歌や川柳をうみ、落語(「陽成院」・「ちはやぶる」・「崇徳院」)など他の文芸にも頻繁に百人一首は顔をだす。
ついで近代の明治なかばごろには、カルタの愛好者らが集まり倶楽部同士による交流試合なども催されたようで、明治三十七年(1904年)には『萬朝報』の黒岩涙香が中心となり、カルタのルールや様式を整理・統一、現在にいたる競技カルタの基礎を築いている(ただし現代の学問水準からみると、このさい制定された現行のカルタ本文には校訂上の問題もおおい)。
現代では古典入門の手引きとして国語の教材に使われたり、正月には季節的な風物詩としていまだ根強い人気保持しながら他の娯楽を相手に健闘している。競技カルタも年間日本各地で多くの大会がひらかれており、文庫や新書などのかたちで注釈書も毎年多数のものが出版されている。
国民の認知度という点では他の古典に比して、一頭地をぬく作品といっても過言ではないだろう。
(数が膨大につき一寸どうまとめるかを思案中。そのうち筆を走らすやも知れず)
定家撰、百人一首とは歌四首・歌人三名(歌人の総計は百一人)をわずか異にする私撰歌集。伝本としては時雨亭文庫蔵本・宮内庁書陵部蔵本・志香須賀文庫蔵本の三冊のみが知られ、中世より代々冷泉家につたわってきたものとみられている。
同書の特徴としては、後鳥羽院・順徳院の歌がみえないかわりに一条院皇后宮(藤原定子)・権中納言(源)国信・権中納言(藤原)長方ら三名の歌がみえること、源俊頼の百人一首とは相違することなどがあげられる。
また配列も異なり、こちらは歌人または歌の番い(組み合わせ)に妙味ある構成との指摘がおおく、これは障子に貼られることを予め想定したゆえ(『明月記』文暦二年五月二七日条参照)と解されている。
成立については、百人一首に先行する百人一首原撰本とみる説がかつて大勢をしめたが、近年は百人一首を嵯峨中院山荘用(宇都宮蓮生贈答用)に改訂したものとみる逆説(百人一首改訂本説)も提唱され、先後関係に以前問題がのこっている。
ただ、後鳥羽院・順徳院というきわめて政治的問題をはらむ帝たちの歌が撰よりもれている事実に、かつて鎌倉方の実力者として知られた蓮生にたいする定家の配慮をそこに読み、本書こそ嵯峨中院ノ障子ノ色紙形
その物ないし、その草案とみる説はつよい。
最終的に蓮生のもとへおくり届けられた色紙が、この百人秀歌のままとみるか、はたまた百人一首として改訂された色紙が贈られたとみるか、対立要点の一つでもある。
簡単にいうと"百人秀歌と同じ配列に改められた百人一首"のことで、別名「百人秀歌配列型百人一首」。通行本百人一首と相違する点は、おもに配列・詠作者表記の二点のみで(使用する百人一首の校合本によっては若干の本文異同も在する)、配列・表記ともに百人秀歌に準ずるものとなっている。
同書をはじめて論の対象とされた吉海直人氏によると、
という四種の経緯が想定されるとして例示するが、今のところどのケースに該当するのか結論はない。
ただ、異本百人一首の体裁は有吉保氏の校合によるかぎり、本文が百人一首の通行本にちかく、詠作者表記は百人秀歌に近似する。
本文にめだった推敲のあと(両書の中間的な本文)がみえないことから、どちらか一方より改訂作業を経た書とみるより、両書から部分的に構造を取り込んだ書と解したほうが蓋然的とされる。つまり、経緯としては上記三番目の二書混成本という事例が想定される。
同書の伝存本には定家の後裔にあたる二条家の歌学書「三部抄」に収載されるものがおおく、おなじ冷泉家伝来とみられる三部抄(冷泉為綱筆本)には通行の百人一首をおさめられる点相違する。
高城功夫氏はこのことから、二条家歌学にぞくする何者かが冷泉家につたわる百人秀歌を見る機会にめぐまれ、自流に権威を加増する目的で百人一首を改訂制作したものだろうと推測されている。
なお、同書の注釈は猪苗代兼載(永正七年-1510年-没)筆本まで遡りうる。
定家筆とされ伝わる百人一首収載歌の色紙。一首を一枚の色紙に四行でわかち書きし、詠作者名は表記しない。伝存品の料紙は反故紙・白紙・装飾紙など多様で、現在のところ約五十枚前後の色紙が報告されている。
ものの真贋については色紙毎に、また鑑定する識者毎に当然ながら見解もちがう。真作は『明月記』文暦二年五月二七日条との関連から、嵯峨山荘ないし小倉山荘のため定家が執筆した色紙とも推測できるが、史料より裏付ける材料もなく、それ以上確実なことはわからない。
いまのところ、百人秀歌独自収載歌の報告がない一方、百人一首独自収載歌の報告ならあるため、これを百人一首成立論の手がかりとして活用する論者もいるが、伝存品には贋作とみられるものもおおく、成立論とからめ論じるさいには相応の慎重さがもとめられる。
史料に小倉色紙がみえはじめるのは、三条西実隆『実隆公記』延徳二年(1490年)三月二七日条定家卿筆色紙形一枚
、同年一一月二九日条京極黄門真筆色紙形、陽成院水無能河歌也
、永正九年(1512年)六月一七日条小倉山庄定家卿自筆色紙一枚
などあたりからで、みな宗祇門とのからみから出現し、中近世の茶道界においてはおもに掛物(掛け軸)として大名・名士より珍重をうく。
近世には『玩貨名物記』・松平不昧『古今名物類聚』・松平楽翁『集古十種』など、いわゆる名物記の類に数十種が紹介されており、現在は所在不明のもの、個人蔵のもののほか、陽明文庫・静嘉堂文庫・徳川美術館・藤田美術館・五島美術館・昭和美術館・香雪美術館・三井文庫などに一部が所蔵されている。
(平成二〇年二月記/平成二〇年一一月訂)