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中岡慎太郎の目録

慎太郎日譜

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中岡慎太郎

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天保九年〜元治元年


天保九年(1838年)
一歳四月一三日土佐国安芸郡北川郷柏木村に生まれる
天保十一年(1840年)
三歳某月某日通称を「光次」に改める
某月某日父小伝次から習字の手習いをうける
天保十二年(1841年)
四歳某月某日松林寺の禅定和尚より読書を習う
弘化元年(1844年)
七歳某月某日野友村の漢方医島村策吾について四書を学ぶ
嘉永二年(1849年)
一二歳四月某日小伝次、病のため中岡源平を養子とする
嘉永四年(1851年)
一四歳五月二一日母牛、病死
某月某日田野郡校に通い始める
某月某日安田浦乗光寺の篠崎小竹より書を習う
嘉永五年(1852年)
一五歳某月某日田野浦勤役間崎哲馬に師事する
安政元年(1854年)
一七歳某月某日田野学館へ入学
安政二年(1855年)
一八歳八月七日田野学館において武市半平太に師事する(九月四日まで)
某月某日高知城下新町田淵の武市半平太道場に入門
某月某日江ノ口村の間崎哲馬塾に入門
某月某日竹村東野の成美塾へ入門
安政三年(1856年)
一九歳五月二二日吉村謙次郎の門で砲術を学ぶ
安政四年(1857年)
二〇歳九月頃小伝次の病のため北川郷大庄屋見習となる
安政五年(1858年)
二一歳一月一五日土佐に大地震がおきる
同頃管轄下農村の救済に尽力したとする話あり
安政六年(1859年)
二二歳某月某日北川郷の産業振興に尽力したとする話あり
某月某日遊学の志を小伝次に訴えるも許されず断念
万延元年(1860年)
二三歳二月一一日利岡彦次郎の娘・兼と結婚(安政四年説あり)
三月某日桜田門外の変を聞き、雀躍して山本左右吉宅に宿泊
文久元年(1861年)
二四歳二月二七日間崎哲馬の衆議講設立のため、資金の融通を仙頭勘右衛門に依頼した手紙を書く
九月頃土佐勤王党に加盟
一一月二六日北川竹次郎にあて手紙を記し、新井林左衛門の養子となるよう説得を行う
文久二年(1862年)
二五歳四月某日依岡権吉と井上佐市郎の襲撃を計画、三夜のあいだ狙うも失敗
七月九日村木虎次郎から八両借りる
一〇月一四日五十人組の一人として高知城下を「願い捨て」のまま出立
一五日五十人組、布師田に宿泊
一六日五十人組、本山の大石俐左衛門方に宿泊し、盟約に署名
同日村木栄十郎・村木虎次郎・村木永二郎にあて手紙を記し、借金の支払延長を願う
同日村木虎次郎、支払の延長を承諾した旨を中岡源平に伝える手紙を書く
一七日五十人組、本山を出立し、立川に宿泊
一八日五十人組、立川を出立し、川上に宿泊
一九日五十人組、川上を出立し、丸亀に宿泊
二一日五十人組、丸亀から船に乗り込む
二二日五十人組、兵庫へ至り、同地に宿泊
二三日五十人組、楠正成の墓を詣で大坂に宿泊
二五日五十人組、伏見に至り、同日には京都へ入る
同頃乾退助の襲撃をはかる
二六日五十人組、京都に逗留し、禁裏を拝する
二七日五十人組、京都を離れ、大津にいたる
二八日五十人組、豊後岡藩主中川修理大夫の入京を阻止するため京都へ呼び戻される
一一月一日千屋寅之助・村田忠三郎らと共に伏見へ赴く
二日河野万寿弥・村田忠三郎らと共に広田章次暗殺に関与か
四日五十人組、修理大夫問責事件にメドが立ち、京都を出立し大津へ宿泊
五日五十人組、坂ノ下に宿泊
六日五十人組、桑名に宿泊
一六日五十人組、江戸築地土佐藩邸に到着
一二月三日五十人組、山内容堂に拝謁
七日千屋菊次郎・田所嶋太郎・島村寿太郎・山本三治・北代忠吉らと勅使を品川まで見送る
同日上記の人々らと宴を開く
一一日藩命をうけ長州藩士山県半蔵と共に水戸・松代へ向け出立し、小金に宿泊
一三日千住にて久坂玄瑞と合流
一七日水戸にいたる
一九日久坂玄瑞と共に水戸藩士岩間金平・川瀬順之助・片岡為之丞らと面談
同頃住谷寅之介と面談
二〇日水戸城下を出立
二三日上州新田郡にて高山彦九郎の墓を詣でる
二七日高崎沓掛を経て信州松代にいたる
同日頃久坂玄瑞と共に佐久間象山をたずね面談
同月頃通称を「慎太郎」に改める
文久三年(1863年)
二六歳一月九日京都にいたる
二三日吉本元助・高原省七・山本左右馬らにあて近況を伝えた手紙を書く
二月七日臨時に徒目付兼他藩応接密事掛に任命される
一四日久坂玄瑞にあて面談とゲタを借用した礼を伝える手紙を書く
一九日島村衛吉・諸有志ら在国の同志にあて京都情勢を知らせる手紙を書く
三月一二日望月清平・樋口真吉・門田為之助・島村寿太郎・池知退蔵らと山内容堂に拝謁か
二六日山内容堂に従い帰国の途につく
五月三日吉村虎太郎、父母宛の手紙で慎太郎の徒目付登用を冷笑する
同日吉村虎太郎、在国の同志にあて手紙を記す
二五日吉村虎太郎、慎太郎や上田楠次・千屋菊次郎・今橋権助・今橋武之助・石川潤次郎・尾崎幸之進・山本左右吉・望月亀弥太・上岡胆次らに手紙を記し、大挙上洛を促す
六月一四日島村寿太郎・大石弥太郎・島村衛吉・利岡武之助・伊藤善平らと清岡治之助方をたずねる
二七日望月亀弥太・小畑孫三郎・河野万寿弥らにあて手紙を記す
八月下旬頃乾退助と面談
九月五日柏木村から高知城下へむかう旨を小伝次に伝え三田尻へ出立
一〇日考次郎宛の手紙を庄三郎に托すという
同日島村寿太郎方をたずねる
一九日三田尻にいたる
二〇日土方楠左衛門と面談し、土佐藩の内状を伝える
同日七卿に拝謁
二一日七卿に拝謁し、和歌を賜ったのち土佐へ向け出立
二五日小伝次、慎太郎の消息について千屋半平に情報を求める
同月頃島村寿太郎にあて最近の情勢を伝えた手紙を書く
一〇月上旬頃土佐へ帰国するも足立行蔵から身辺の危険を知らされ、土方楠左衛門から托された土方理左衛門あての手紙を預けたのち、足立から脱藩用の路銀を渡されるという
同頃島村寿太郎方をたずねるという
同頃武市半平太道場で三宅謙四郎に脱藩を勧めるも断られ、三宅から送別の漢詩を贈られる
同頃須賀恒次をたずね、脱藩を勧めるも断られるという
同頃御畳瀬から市艇で海路を脱藩するという
一九日三田尻招賢閣に至り、土方楠左衛門に面談
某日招賢閣の組織に加わり、第九伍に属す
同月頃「石川清之助」の変名を使い始める
一二月一四日田所壮輔と共に伊藤甲之助・島村左伝次をたずねる
二五日招賢閣会議員に推任される
二六日真木和泉と共に三田尻を訪れた肥後藩の木曽源太郎をたずね、切腹を思いとどまるよう説得し、これを中止させるという
下旬土佐藩出身の衛士らを召還するために来訪した伊藤善平にかかった嫌疑を弁明するため佐々木男也と面談
元治元年(1864年)
二七歳一月一〇日三田尻から氷上に戻る東久世通禧・四条隆謌・錦小路頼徳の共に加わる
一九日丹羽出雲守・此企田源次郎・村上兵衛大尉・河村能登守らと京都へ向け出立
二九日京都長州藩邸をたずねて来た山本頼蔵と面談
二月上旬高杉晋作・太田民吉らと島津久光暗殺を計画
一二日長州藩邸を訪れた山本頼蔵・足立行蔵に面談
二二日三田尻の同志にあて京都情勢を伝えた手紙を書く
二四日長州藩邸を訪れた山本頼蔵・高橋牛馬に面談
二六日山本頼蔵に手紙を発し、川瀬達三と共に長州藩邸にて面談
同日山本兼馬と共に山本頼蔵に対面
三月七日長州藩邸をたずねて来た山本頼蔵に面談
一一日山本頼蔵、慎太郎に古高俊太郎への連絡を依頼する
一四日山本頼蔵、慎太郎から島村寿太郎・門田為之助あての手紙を秋沢某へ送る
一七日古高俊太郎にあて中沼了三塾の探索を依頼する手紙を書く
某日中沼了三塾へ「西山頼作」の変名で入門
二四日山本頼蔵、慎太郎からの手紙をうけとる
四月五日長州藩邸を訪れた山本頼蔵に清岡半四郎・田所壮輔らと面談
八日山本頼蔵、手元に届いた手紙を慎太郎・清岡半四郎に送る
九日山本頼蔵、慎太郎・清岡半四郎・田所壮輔らと長州藩邸にて面談し届いた手紙をわたす
一一日山本頼蔵、清岡道之助からの手紙を慎太郎にわたす
一五日山本頼蔵、慎太郎あての手紙を受け取る
一六日長州藩邸を訪れた山本頼蔵に清岡半四郎・能勢達太郎らと面談、手紙を受け取る
同日薩摩藩士肝付十郎・中村半次郎らと面談
一七日長州藩邸を訪れた山本頼蔵に清岡半四郎・能勢達太郎らと面談
一九日清岡半四郎・田所壮輔らと共に大坂へ下る
二一日同志四名らと共に素山幽居へおもむく
二二日山本頼蔵・他一名と共に同志の荷物を改める
二三日山本兼馬・他三名らと同志の荷物を改める
二五日長州藩邸を訪れた山本頼蔵・安岡権馬らと面談
五月某日土佐へ帰国するという千屋金策に漢詩を贈る
一〇日長州藩邸を訪れた山本頼蔵に面談
一一日樋口真吉・上田楠次・門田為之助らにあて手紙を書く
一三日古高俊太郎方において、来訪した山本頼蔵に対面
一四日頃土佐へ帰国する山本四郎に手紙を託す
一五日長州藩邸を訪れた山本頼蔵に清岡半四郎と面談
一七日山本頼蔵、慎太郎から「大蔵」あての手紙が届く
二八日三田尻に帰着し、土方楠左衛門と面談
同日湯田へおもむき三条実美らに拝謁
二九日山口にいたる
三〇日広沢兵助・中村円太・真木和泉・水野丹後らと共に土方楠左衛門と面談
同日湯田に帰り宿泊
下旬頃久坂玄瑞・寺島忠三郎、慎太郎および中村円太にあて手紙を記す
六月一日真木外記・中村円太らと三条実美に拝謁
二日同志と共に酒楼にのぼる
六日京都への出立に伴い暇乞いのため三条実美に拝謁
七日情勢視察のため京都へ向け出立
二六日京都長州藩邸から嵯峨天竜寺に移る
七月一日天龍寺より天王山へいたる
二日天王山から天龍寺へ帰陣
一八日天龍寺から郷里の父兄にあて死を覚悟した手紙を記す
一九日禁門の変勃発
同頃天龍寺から中立売門へ進軍するも途中にて負傷
同頃鳥居大炊左衛門方をたずね、傷の手当てをうけるという
八月某日真木外記と忠勇隊々長の任につく
某日真木外記と共に水野丹後・中村円太にあて嘆願書を記す
五日忠勇隊、西ノ浦信行寺西政寺に屯集
六日忠勇隊、松島剛蔵・林市太郎・藤井七郎左衛門らと馬関戦争への参戦について示談
七日忠勇隊、藤井七郎左衛門から三田尻御茶屋へ移動するよう伝えられる
同日忠勇隊、下関に駆けつけるようにとの通達をうけ即刻出立、台道に宿泊
八日忠勇隊、吉田に至り宿泊
九日忠勇隊、長府に至り宿泊
同日忠勇隊、内藤佐渡から三田尻へ帰還するように通達をうける
同日忠勇隊の三田尻帰還について佐世八十郎と面談
一〇日忠勇隊、山口政務座より出た帰還命令を佐世八十郎から知らされ、帰還の途につく
同日池内蔵太・安岡金馬・上田宗児・島浪間・大利鼎吉らと長府に残留
一一日池内蔵太・安岡金馬・上田宗児・島浪間・大利鼎吉らと船で長府を出帆
同日三田尻へ帰着し、小松亭に宿泊
一三日土佐へ出立する中村恭太郎に池内蔵太と面談
一五日山口へ出立
二〇日奇兵隊陣営をたずね談話
二一日同志一名と共に奇兵隊陣営をたずね談話
二六日形勢視察のため清岡半四郎と三田尻を出立
九月初旬清岡半四郎と共に大坂へいたる
某日清岡半四郎・千屋金策らと共に千屋寅之助に面談
二三日清岡半四郎・千屋金策らと共に兵庫を出帆
二六日三田尻へ帰着し土方楠左衛門と面談
三〇日奇兵隊陣営をたずね談話
一〇月一日四国地方探索のため奇兵隊陣営をはなれる
一〇日清岡半四郎と共に三田尻へ再び帰着
同日中平保太郎・上田楠次・門田為之助・大石弥太郎・川原塚茂太郎・其外にあて手紙を記し「涙を抱えて沈目す可し」と自重を促す
一一日土方楠左衛門と酒楼にのぼる
一二日土佐出身者一同、瓦屋にて会談
二九日奇兵隊陣営をたずねる
下旬頃時山直八と因州へむかう
一一月一日時山直八と共に因州より帰陣
二日奇兵隊陣営より三田尻へ帰着
三日土方楠左衛門と面談
一八日真木外記と共に忠勇隊総督に任ぜられる
同日忠勇隊、三田尻を発し船で長府にいたる
某日忠勇隊解散
三〇日早川養敬と面談後、共に功山寺の三条実美に拝謁
一二月二日五卿の筑前渡海について月形洗蔵・早川養敬に面談
同頃西郷吉之助が滞在する小倉に至り、鍋屋五平方に宿泊
四日「寺石貫夫」と変名し、五卿渡海について西郷吉之助と面談
一五日高杉晋作、功山寺に挙兵
一八日四条隆謌・三条西季知の萩出立に土方楠左衛門と随従
同日吉田に至り宿泊
一九日伊佐に至り宿泊
二〇日長府藩の使いから伊佐へ留まるよう伝えられる
二二日四条隆謌・三条西季知の使者として萩城へ出立
二五日伊佐へ帰着し、毛利元徳が長府へ移った旨を伝える
二六日茂岡総兵衛から長府へ帰還するよう伝えられる
二七日四条隆謌・三条西季知・土方楠左衛門らは伊佐を出立、慎太郎は同地に留まる
三一日同志らと河原にて年を越す

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(平成某年某月某日識)

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