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半平太詩評

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武市半平太

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贈歌篇


短歌・漢詩、『笑泣録』・『笑血録』・『笑泣集』より

短歌

高徳
櫻木に 寫せば唐の 言の葉も 大和心の 花にぞ有ける
ふしの根の 雪とひとつに うつもれて 箱根の道は いつかひらけむ
おろかにも 我ものとやは おもふべき 君の御楯と 生れてし身を

薩人

武市半平太の『在京日記』文久二年閏八月廿六日条におさめられる短歌。詞書にみえる「高徳」は『太平記』や戦前の文部省唱歌でお馴染みの児島高徳のことで、その著名な故事をうたっている。詠み人「薩人」については未詳、日記の前後の文から推せば田中新兵衛になりそうなのだが、半平太の実名(小楯)を御楯とよみ込んでいる点が気にならなくもない。

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故郷に かへる錦の 袖乃上に つつめや君が 深き恵を

姉小路公知

文久三年一月四日、土佐における間崎哲馬らの藩庁改革運動を支援すべく、京都を離れる半平太にたいし贈った姉小路公知の和歌。

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梅の花へ
いわゐつつ 奉るなり 春またで 赤にひらく これの梅か枝

河野万寿弥

ふしのゆめをいわいて
君が身の 幸くさかへん しるしとて ふしの高根の ゆめニ見へけん

小畑孫次郎

ふしの山 ふりつむ雪も 春の日に ゆめニ見しごとき へやとけなん

小笠原美多

君かみし ふしのミゆめは くもはれて 高根にのぼる しるしなるらん

島村衛吉

『武市瑞山獄中書簡 妻及び姉・妹あて』によると半平太が姉山崎奈美にあて送った元治元年一二月二〇日付(『武市瑞山文書』では妻の富にあて送った文久三年一二月二〇日付)の手紙に引用されている和歌群。歌中の「ふしのゆめ」とは半平太がみた富士山の瑞夢を指す。

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小楯のもとよりつれつれをなぐさめよとて、うるわしき酒をたまわりけれは
酒をたもふ 君の情の めくりきて 年を忘するる 身の徳利也

檜垣清治

文久三年一二月二九日付書簡にみえる檜垣清司の歌。また同書にはその半平太ないし檜垣を描いたとみられる絵(こちらのページの最下段の絵)が付されている。

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西東 かはる獄屋に かはらぬは 誠を尽す 心なりけり
まか事は 去年の夕の とし浪に 流れて清き 春は来にけり

田内衛吉

半平太の実弟 田内衛吉が詠んだ歌。「兄弟同じく獄につがれし身となりて、いと悲しくはべりければ」として上段の歌を、「同志の前途を祝はんと」して下段の歌をよんでいる。

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祝ひつつ 君にそ贈る 此の春を 赤き心を 開く梅か枝
諸共に 冬籠して 此の花の 今を春辺の 思ひ出もなし

河野万寿弥

土佐勤王党の同志で同じく獄へとつながれた河野万寿弥が詠んだ歌。半平太に贈った紅梅の折枝に添えられた歌で、諸共に〜はそれに対する半平太の返歌である。

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思ふこと 晴るるしるしか 富士の嶺に かかる雲なき 夢を見しとは
朝にけに 仰ぐ雲井の 晴るる しるしや富士の 夢に見へけむ

小笠原美多

思ふこと 晴るるしるしか 富士の嶺に かかる雲なき 夢を見しとは
君が見し 富士の夢こそ 雲井まで やがて登らむ しるし成らめ

山崎奈美

半平太の長姉美多と次姉奈美が、それぞれ半平太の歌思ふこと〜にあて贈った返歌二首。

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いかにせん 物思ふにも 増りけり ひとやをうつす うき絵かた見て
うつし絵に ははかなきものと 思えとも 猶なつかしみ なかめ暮しつ

田内衛吉養母

田内衛吉の養母が半平太らの歌集『笑泣録』をみて詠んだ歌。母子の相問歌『北山時雨』に収載。

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西東 かわる獄に かわらぬは まことを尽す 心なりけり

田内衛吉

半平太が「公[山内容堂]より思いもよらぬ厳しき仰せ事」を蒙り「吾[田内衛吉]もまた捕われとなりて兄弟おなじく獄に繋がれし身」になったことを詠んだ歌。

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獄中月
忌はしき 獄屋の軒の 隙よりも 月は誠を 照らしてそ行
大空に 照る月影は 清けれと 蔽へる雲を いかにせん君
人の目に 見へぬ心の 増鏡 清き光は 神そ知るらむ
筆の迹 見るにつけつつ 床しさの なほ彌勝る 君の面かけ
忌はしき 獄屋に積る 此のうさを 彌陀の國にて 共に語らむ

島本審次郎

獄中の島本審次郎が半平太にあて贈った歌。忌はしきの部分に獄囚憤懣の情が読みとれる一方、半平太の返歌にはその慰撫につとめる情がよみとれる。

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漢詩

挺立ス山厳竹薮竿 故人ノ心事画中ニ看ル 男児ノ再会期シテ得難シ 唯喜ブ清風ノ座ヲ襲ウテ寒キヲ
武市君ト別ルル席上酔ウテ題ス
別時何必説平生 画竹贈吾無限情 従茲白露金風夕 独対此君斟酒コウ
題武市君所贈竹言別辛酉九月初二日也

久坂玄瑞

文久元年九月、武市半平太が土佐勤王党の結成にともない江戸から土佐へ帰郷するさい、久坂玄瑞が半平太の墨竹画に題した賛二詩。

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一剣飄然滞落陽 向人慷概説勤王 耳鳴清酒剛腸出 髯帯秋風義胆張
徒然中一律得半申候不能続思御笑草迄ニ御座候

西村武正

津和野藩士西村武正が半平太に寄せた漢詩。当時、半平太が京都における声望の一端が伺えようか。

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奸徒跋扈事皆空シ 党議忠言百里声ナリ 天下総テ知己在無シ 独リ太白ヲ傾ケ英雄ヲ待ツ

山内民部

獄中の半平太を慰めるため、山内容堂の実弟民部が作した漢詩。民部は山内家一門のなかでも勤王家として知られ、半平太の目指す挙藩勤王の路線をつよく支持していた。当時は病と称して閉居の身。

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『笑泣録』・『笑血録』・『笑泣集』より

つほみなは 時へて花は 咲ものを つぼますくちる 庭の埋もれ木
海山を 尽くしてたとふ 功も またいつまても 果しなければ
もろともに 北山しくれ おおひきて ひとり晴間に おおよしもなし
いにしへも かかるためしは 有明の 雁のことつて うらやま敷も
ねやでくて ねやてひつては 若武者も まつ獄牢の 身となりにけり
二人を ならへて見れば 大丈夫も 人から見れは ろふろふの人
騰写名字脱
夢をみて
まとろむと おもへは天皇の 御幸なり ゆめてふ物の うれしくもあるか
一と度は はらずはいかて 厚氷 とけてうれしき 事のあらなん
むらすすめ 世をははばかれ 村雀 いつく鷹の 羽やのすらん
頼みつる ろ梶折てや 海士小舟の 何地に寄や 浪のうねうね
二人獄の内板かべをへだてて声のみ聞えけれは
君の為 身をは惜す 真人らを 囚に籠る 醜の曲言憂
見まくほし らたてしなくは 此囚 久しふりなる 君かおもかげ
かくならは かくと定めし 身なれとも 折てくやしき 国を売人
君の為 うえし千種も 冬枯れは 芽出て花咲 時をまたなん
聞につけつつ憂ぞましけり
秋津洲に 一人の君と 知らぬ等が 喧きぞ うさまさりけん
『笑泣録』・『笑血録』・『笑泣集』の三部は下獄期における半平太と檜垣清治の交換歌集のこと。ここで檜垣清治は「海部亘知義(うなへわたりともよし)」と変名し、半平太に上記の歌々をおくっている。

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(平成某年某月某日識)

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