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坂本龍馬の目録

龍馬日譜

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天保六年〜元治元年


天保六年(1835年)
一歳 一一月一五日 土佐国高知城下(上町)本丁筋一丁目に生まれる
弘化三年(1846年)
十二歳 六月一〇日 母幸、四十九歳で死去
某月某日 小高坂村楠山塾に入門するもほどなく退塾
嘉永元年(1848年)
一四歳 某月某日 城下築屋敷の小栗流日根野弁治道場に入門
嘉永三年(1850年)
一六歳 某月某日 幡多郡で土木工事の監督をつとめるという
嘉永四年(1851年)
一七歳 三月二七日 父八平、郷士職を権平にゆずる
嘉永六年(1853年)
一九歳 三月四日 家老福岡宮内に対し江戸修行を願いでる
前半 「小栗流和兵法事目録」を授与される
吉日 八平から「修行中心得大意」と題する訓戒状を贈られる
一六日 藩庁から通行手形を受け取る
一七日 江戸へ武芸修行に出立、溝淵広之丞も同行か
四月中旬 北辰一刀流千葉定吉道場へ入門
六月某日 黒船の来航により土佐藩品川下屋敷へ臨時御用につく
九月二三日 八平にあて「異国の首を打取り、帰国可仕候」と記した手紙を書く
一二月一日 佐久間象山塾に入門
安政元年(1854年)
二〇歳 六月二三日 土佐へ帰国
閏七月某日 「小栗流和兵法十二箇條並二十五箇條」を授与される
一一月五日 土佐大地震(寅の大変)
某日 築屋敷三丁目の河田小龍をたずね面談
安政二年(1855年)
二一歳 二月二日 兄権平、郷士坂本家の家督を継ぐ
一一月六日 仁井田浜における徳弘孝蔵門の砲術稽古に参加
七日 同上
一二月四日 八平、五十九歳で死去
安政三年(1856年)
二二歳 七月二九日 再度の武芸修行のため国暇を願い出る
八月四日 江戸への出立を許可される
一九日 剣術修行のため江戸へ出立
九月下旬 江戸の土佐藩築地中屋敷へ至り、武市半平太・大石弥太郎らと同宿
二九日 高知の相楽屋源之助にあて江戸到着を知らせる手紙を書く
安政四年(1857年)
二三歳 四月一七日 毛利荒次郎・寺田左右馬らと共に斎藤弥九郎の練兵館をたずねる
八月四日 山本琢磨、時計拾得事件をおこす
九月某日 修行期間の満期につき、さらに一年間の延長を許される
某月某日 千葉定吉道場塾頭に任じられるという
安政五年(1858年)
二四歳 一月某日 「北辰一刀流長刀兵法目録」を授与される
某月某日 姉乙女に近日の帰国を伝える手紙を書く
某月某日 武者修行をかねながら東海道を上る
某月某日 津に逗留し、剣術指南を請われるも謝辞する
九月三日 土佐へ帰着
一一月一八日 住谷寅之介・大胡聿蔵より手紙が届く
一九日 住谷寅之介・大胡聿蔵らに返書をしたためる
二三日 住谷寅之介・大胡聿蔵・吉田健蔵・根本正之介らと面談、藩の内状を伝える
二四日 同上
二五日 立川を出立し、自宅へ帰る
安政六年(1859年)
二五歳 九月二〇日 徳弘孝蔵の門に入る(再入門か?)
万延元年(1860年)
二六歳 三月某日 同志らと桜田門外の変を聞き、その感想をのべる
七月某日 武市半平太・岡田以蔵・久松喜代馬・島村外内らの西国行きを見送る
文久元年(1861年)
二七歳 三月四日 永福寺門前事件がおこり、龍馬もこれに駆け付ける
九月某日 土佐勤王党へ加盟
一三日 平井加尾に袴・羽織・頭巾などを用意してくれるよう依頼状を記す
一〇月上旬 「小栗流和兵法三箇條」を授与される
一一日 讃岐丸亀への「剣術詮議」が許される
一四日 丸亀行のため田中良助から二両借りる
某日 讃岐丸亀の矢野市之進道場へいたる
同頃か 宇和島藩の児島惟謙らと面談
一一月上旬 国暇の延長を願い安芸国坊ノ砂にむかう
六日 大坂住吉陣営の望月清平へ龍馬の手紙が届く(?)
一一日 望月清平と面談(?)
文久二年(1862年)
二八歳 一月一四日 萩にいたる
一五日 久坂玄瑞と面談し、文武館で藁束斬りを披露
同日か 少年剣士と文武館で試合を試みるという
一七日 久坂玄瑞と面談
二一日 久坂玄瑞から武市半平太にあて手紙を託される
二三日 萩を出立し、京坂の巡歴へむかうという
二月二九日 土佐に帰国
三月一日 武市半平太をたずね探索の模様を伝えるという
三月某日 親戚・広光左門から旅費として十余両借りる
某日 乙女から権平秘蔵の「肥前忠広」を贈られる
二三日 河野万寿弥とともに武知半平太宅にて沢村惣之丞に面談
二四日 沢村惣之丞と共に脱藩
二五日 檮原村の那須信吾方に宿泊し、那須俊平に道案内を依頼する
同日 権平、龍馬の行方不明を藩へ届け出る
同日 平井収二郎、龍馬の脱藩について平井加尾へ手紙を送る
二六日 伊予大洲藩領泉ヶ峠に宿泊
二七日 長浜の冨屋金兵衛方に宿泊
二九日 長州三田尻にいたる
某月某日 沢村惣之丞と別れ、九州巡歴に出立
某月某日 薩摩入国を謀るも失敗するという
六月一一日 下関で別れた沢村惣之丞と大坂で再会
七月二三日 大坂で桶口真吉に会い、一両を贈られる
下旬頃 京都で大石弥太郎と出会い、妙心寺の検分を依頼されるという
八月某日 江戸にいたり、千葉定吉道場へ寄宿
閏八月下旬 間崎哲馬・門田為之助・上田楠次らと会飲
同頃 間崎哲馬と貨幣改鋳について談じる
九月三〇日 京都にて福岡藤次とともに薩長土三藩の親兵設置について久坂玄瑞と面談
一一月一二日 武市半平太をたずねた久坂玄瑞・高杉晋作らと万年屋で会飲
一八日 蒲田梅屋敷事件にともない中橋寒菊亭で催された土佐尊王派の会合に出席
一二月四日 間崎哲馬・他と松平春嶽に拝謁を願い翌日の面会を約束
五日 間崎哲馬・近藤長次郎らと松平春嶽に拝謁
同日 土佐から来府していた五十人組と接触
九日 門田為之助・近藤長次郎らと勝海舟をたずね、その門人となるか
同日 近藤長次郎と松平春嶽に拝謁し建白書と摂海の図を贈る
一一日 松平春嶽を訪ねるも繁忙につき会えなかったか
一二日 千葉重太郎と共に陸路を京都へ出立
二九日 千葉重太郎と共に兵庫の勝海舟をたずねる、近藤長次郎も同行か
文久三年(1863年)
二九歳 一月一日 千葉重太郎・近藤長次郎・他一名と大坂へ出立
八日 望月亀弥太・千屋寅之助・高松太郎らを勝海舟の門下へと入れる
一一日 望月亀弥太・千屋寅之助・高松太郎らと勝海舟に従い大坂から兵庫にいたる
一三日 兵庫から順動丸に乗船し兵庫を出帆
一五日 勝海舟、下田に寄港中の山内容堂をたずね龍馬ら脱藩罪赦免の内諾をえる
一六日 順動丸で品川に至り勝海舟邸へ入る
二二日 大坂にむかう順動丸の船中で杉浦正一郎と歓話
二月五日 岡田某・近藤長次郎・新宮馬之助・黒木小太郎らと協議の結果、岡田星之助を討つべきことに議決した旨を勝海舟に伝える
中旬 京都土佐藩邸で七日間の謹慎を命じられる
二五日 千葉重太郎、脱藩罪赦免について龍馬の身を案じ、福井藩邸をたずね相談
同日 正式に脱藩罪を赦免される
二六日 千葉重太郎、龍馬の脱藩罪赦免を福井藩邸につたえる
三月一日 新宮馬之助と共に大坂の勝海舟をたずねる
六日 安岡金馬と共に藩庁から航海術修行を命じられる
七日 岡田以蔵、龍馬の依頼で勝海舟の護衛につく
某日 臨時御用で上京中だった権平に面談
二〇日 乙女にあて近況を伝える手紙を書く
四月二日 沢村惣之丞ら他三名と大久保一翁をたずね面談
三日 大久保一翁から手紙をたくされ京都(あるいは福井)の松平春嶽のもとへ出立
九日 順動丸で大坂にいたる
一〇日 和歌山の勝海舟をたずねる
一一日 勝海舟と面談
二七日 勝海舟、幕府から操練所の取り締まりと勝塾での海軍教授を許される
二八日 姉小路公知の摂海視察に随従
五月二日 姉小路公知と共に入京
一六日 勝塾への資金援助を依頼するため福井の松平春嶽のもとへ出立
一七日 神戸海軍操練所の設立を伝える手紙を乙女にあて書く
二七日 京都福井藩邸にて中根雪江と面談
六月二日 廣井磐之助、仇討ちをとげる、龍馬はこれを援助
上旬 乾十郎を助け、その保護を大坂町奉行松平勘太郎に依頼する
同頃 乾十郎、松平勘太郎から形ばかりの審問をうけ、解き放たれる
同頃 龍馬らの処置に憤った甲宗助に決闘を申し込まれる
同頃 沢村惣之丞・佐藤与之助・勝海舟らの仲介により決闘が中止される
一四日 千葉佐那を紹介する手紙を乙女にあて書く
一六日 池内蔵太の母親にあて内蔵太の脱藩に理解を求める手紙を書く
二五日 佐藤与之助・高松太郎らと明石をおとずれ左海屋に宿泊がきまる
二五日頃 林豹吉郎、乾十郎の件で龍馬に礼を伝える
二六日 長州藩士たちから小笠原長行襲撃計画に誘われるも、これに応じず塾生らを説得
二八日 「ねぶと論」にふれた手紙を乙女にあて書く
二九日 京都福井藩邸をたずね騎兵銃一挺を贈り村田巳三郎と面談
同日 「日本を今一度洗濯いたし申し候」との手紙を乙女にあて書く
七月一日 近藤長次郎と共に京都福井藩邸をたずね村田巳三郎に面談
上旬 佐藤与之助と共に松平勘太郎に面談
二二日 岡田造酒助を京都越前藩邸にたずね陸奥陽之助の身柄について相談をするという
二五日 勝海舟にあて佐藤与之助と連名で手紙を書く
某月一〇日 村田巳三郎にあて花押入りの手紙を書く
八月一九日 権平の養子問題について河原塚茂太郎にあて謝絶状を書く
同日 大坂を(おそらくは江戸へ向けて)出立
下旬頃 天誅組の敗戦を知らせた手紙を乙女にあて書く
九月二三日 沢村惣之丞と共に江戸の大久保一翁をたずねる
一〇月某日 神戸海軍勝塾の塾頭に任じられる
一一月三日 横井小楠、勝海舟にあてた手紙で龍馬と近藤長次郎に礼を伝える
七日 京都東本願寺にて松平春嶽に拝謁し大事之秘密を言上、のち同座した酒井十之丞・嶋田近江らと面談、中根靫負をへて十五両を賜る
一二月六日 勝海舟、龍馬らの国元召喚を延期してくれるよう嘆願書を書く
元治元年(1864年)
三〇歳 二月某日 国元召喚の延期が認められず再脱藩
七日頃 黒龍丸の取り扱いについて嘆願書を記す
九日 勝海舟に従い龍馬も長崎へ出張することが決まる
一〇日 京都を出立し大坂に下る
一一日 神戸にいたる
一二日 大久保一翁、龍馬らの進退を気遣った手紙を勝海舟にあて書く
一三日 大風のため出港できず順延
一四日 兵庫沖の翔鶴丸に乗り込み出帆
一五日 翔鶴丸、佐賀関へ入港
一六日 陸路で鶴崎へむかう
一七日 鶴崎より野津原へむかう
一八日 野津原より久住へむかう
一九日 久住より内牧へむかう
二〇日 勝海舟一行とはなれ山津の横井小楠をたずね、同日に帰着
二一日 熊本城下より高橋宿に向かい島原から船で長崎へむかう
二二日 会津に宿泊
二三日 長崎に至り福済寺を宿とする
四月四日 長崎を出立
五日 島原にいたる
六日 再び横井小楠をたずね、勝塾へ入門する横井左平太らを同行
七日 島原より内牧へむかう
八日 内牧より久住にむかう
九日 久住より佐賀関にむかう
一一日 佐賀関から船で兵庫へむかう
一二日 兵庫にいたる
五月某日 楢崎龍と出会う
二九日 徳川幕府、神戸海軍操練所建設の覚書を発す
六月一日 楢崎龍をたずね別杯を酌み翌朝より江戸へむかう
初頭 北添佶摩に京都からの退京を説く
五日 池田屋事件勃発、北添佶磨・望月亀弥太らが殺害される
一七日 黒龍丸で下田へ入港し勝海舟へ浪士による蝦夷地開拓計画を告げる
二三日 江戸において鳥取藩士安達清風をたずね面談
七月二四日 勝民子、勝海舟宛ての書簡に龍馬の動勢を記す
二八日 翔鶴丸で江戸より神戸へ帰る
八月一日? 楢崎龍と内祝言をあげるという
同頃 楢崎一家を窮乏から助ける
三日 吉井幸輔と共に神戸より京都へむかう
上旬頃 西郷吉之助と面談する
二三日 京都から神戸へもどり勝海舟に京都や薩摩藩の情勢を伝える
九月一五日 肥後藩士長谷川仁右門に使いを出し面談の手筈を整え一六日には上京する旨を伝える
中旬 勝塾々生に対し幕府から内偵調査が行われる
一〇月二一日 勝海舟、幕府より江戸東帰を命じられ、龍馬らの身柄を薩摩藩に依頼する
某月某日 沢村惣之丞と共に呼返を逃れ在江戸
某月某日 関東で黒船を借用すべく奔走

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(平成某年某月某日識)

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