慶応元年(1865年) | ||
---|---|---|
三一歳 | 三月一二日 | 神戸海軍操練所が廃止される |
同月頃か | 江戸より大坂・京都へ上る | |
同月頃か | 大坂にて佐藤与之助と面談し借金返済のメドがたたない旨を伝える | |
四月五日 | 京都の吉井幸輔方にて土方楠左衛門と面談 | |
某日 | 高松太郎・千屋寅之助らと嵐山で花見の帰途、会津藩の巡邏隊に遭遇? | |
二五日 | 勝塾より残留していた同志たちと共に大坂を出立 | |
二六日 | 薩摩藩の胡蝶丸に乗り込み出帆 | |
二九日頃 | 長崎に寄港し、岩男俊貞・野々口為志らと出会う | |
五月一日 | 胡蝶丸で鹿児島にいたる | |
一六日 | 薩長同盟実現のため鹿児島を出立 | |
一七日 | 川内宿より阿久根宿にむかう | |
一八日 | 米ノ津にむかう | |
一九日 | 横井小楠をたずね面談 | |
同日 | 米ノ津より船で太宰府へむかう | |
二三日 | 太宰府へ至り、薩摩藩士渋谷彦助と面談 | |
二四日 | 五卿に拝謁し、小田村素太郎と面談 | |
二五日 | 三条実美・東久世永通禧に拝謁 | |
二七日 | 三条実美に再び拝謁 | |
二八日 | 安芸守衛と共に太宰府を出立 | |
二九日 | 木津之宿に宿泊 | |
閏五月頃か | 長崎に社中を設立 | |
一日 | 下関へ至り、小田村素太郎の指示で入江和作をたずね、城の腰にある綿屋弥兵衛方に宿泊 | |
二日 | 病気のため町村屋清蔵方に移り療養 | |
四日 | 下関に宿泊 | |
五日 | 時田少輔・土方楠左衛門が来訪、太宰府の様子と桂小五郎との会見を求める | |
同日 | 土方楠左衛門から聞いた将軍の江戸進発を渋谷彦助に伝える手紙を書く | |
六日 | 土方楠左衛門と共に桂小五郎・時田少輔と面談 | |
同日 | 桂小五郎らの退去後、野村靖之助をたずね薩長同盟について面談するも拒絶される | |
七日 | 英国船を見物に出かける | |
同日 | 土方楠左衛門と共に桂小五郎らの訪問をうける | |
八日 | 同上 | |
一〇日 | 椋梨伝八郎の訪問をうける | |
二一日 | 中岡慎太郎が下関へ至り西郷吉之助が京都に直行した旨を伝えられる | |
同頃 | 下関に滞在中、オランダの領事応接の事あり | |
二九日 | 中岡慎太郎と共に下関から京都へ出立 | |
六月一四日 | 備前西大寺へいたる | |
一五日 | 藤井宿で備前藩士津田彦右衛門・小松源治の訪問をうける | |
二四日 | 京都薩摩藩邸で西郷吉之助と面談 | |
七月某日 | 大和十津川より上京した田中顕助の助力をうける | |
一九日 | 長州へむかう中岡慎太郎・田中顕助らを伏見まで見送る | |
二七日 | 福岡藤次と共に伊達宗城に拝謁 | |
八月中旬頃 | 伏見の寺田屋と日野屋を京都での常宿とし「西郷伊三郎」の変名を用いる | |
九月六日 | 京都寺町で河村盈進に出会い、坂本家の様子を聞く | |
七日 | 権平・乙女・おやべにあて手紙を記し、近況と長州藩の様子を伝える | |
九日 | 乙女・おやべにあて楢崎龍を紹介し、お龍のために『新葉集』や衣類などを送ってくれるよう依頼した手紙を書く | |
同日 | 池内蔵太の家族にあて、内蔵太の消息を伝えた手紙を書く | |
二四日 | 西郷吉之助と共に京都を出立し大坂へ下る | |
二六日 | 兵庫へいたる | |
二八日 | 胡蝶丸で伊予青島に至り宿泊 | |
二九日 | 上関にいたる | |
一〇月三日 | 小田村素太郎と共に宮市より三田尻をへて山口に入る | |
同日 | 薩摩藩の方針を伝える手紙を池内蔵太にあて書く | |
四日 | 広沢兵助・松原音三・小田村素太郎らと面談し薩摩への糧米提供の確約を得る | |
七日 | 下関の白石正一郎をたずねる | |
一一日 | 印藤聿と面談 | |
一二日 | 印藤聿に前日の面談内容について妥協を求める手紙を書く | |
一四日 | 下関新地の林家で桂小五郎・高杉晋作・井上聞多・伊藤俊助らと会食 | |
一八日 | 近藤長次郎、ユニオン号の受け取りを果たす | |
二一日 | 桂小五郎と下関で面談 | |
同日 | 継母伊与、六十二歳で死去 | |
一一月二四日 | 大坂を出立 | |
二九日 | 上関へいたる | |
一二月三日 | 下関へ至り、その旨を印藤聿に伝えた手紙を書く | |
同日 | 肥後藩士上田久兵衛、大坂城に召され薩摩藩と龍馬の動向について下問される | |
一四日 | 岩下佐次右衛門・吉井幸輔らにあて、黒田了介と共に上京する意志を伝え、長州訊問使永井尚志の動向を知らせた手紙を書く | |
同日 | 「桜島丸条約」を改定し中島四郎と「新桜島条約」を結ぶ | |
某日 | 黒田了介と共に桂小五郎へ上京を促す | |
二九日 | 印藤聿に近況を伝え、上京の同伴者を求めた手紙を書く | |
慶応二年(1866年) | ||
三二歳 | 一月一日 | 印藤聿の紹介により福永専助宅で三吉慎蔵と出会う |
二日 | 三吉慎蔵と引き続き面談、五日まで逗留 | |
上旬 | 高杉晋作から送別の漢詩を送られる | |
一〇日 | 三吉慎蔵と共に船で京都へ向け出立 | |
一四日 | 長崎で近藤長次郎が自刃 | |
一六日 | 船で神戸に至り宿泊 | |
一七日 | 池内蔵太・新宮馬之助らを加え、神戸より大坂へむかう | |
一八日 | 大坂薩摩藩邸に立ち寄り、薩摩の船印を借りる | |
同日 | 大久保一翁をたずね、身辺の危険を通告される | |
一九日 | 木場伝内のはからいで薩摩藩士として通行手形を交付される | |
同日 | 龍馬ら、ピストル・手鑓・本込め銃を寺町で求める | |
同日 | 大坂八軒屋から淀川を上り、伏見寺田屋に宿泊 | |
同日 | 風邪のためか熱を出す | |
二〇日 | 池内蔵太・新宮馬之助らと共に京都薩摩藩邸に向かい、薩長同盟がいまだ締結されていない事を知り、西郷吉之助らに桂小五郎との会談を求める | |
同日 | 池内蔵太の家族にあて手紙を書く | |
二一日 | 薩長同盟成立 | |
同日 | 薩長同盟成立を三吉慎蔵に伝える | |
同日 | 伏見奉行所、伏見寺田屋周辺の探索を行なう | |
二二日 | 西郷吉之助・小松帯刀らと共に桂小五郎の送別の会に出席 | |
同日 | 伏見奉行所、引き続き寺田屋周辺の探索を行なう | |
二三日 | 伏見寺田屋へ戻る | |
二四日 | 未明頃に幕使の襲撃をうけるも脱出、伏見薩摩藩邸に匿われる | |
二五日 | 伏見奉行所、龍馬らが伏見寺田屋に残した遺留品を押収 | |
三〇日 | 三吉慎蔵・楢崎龍らと共に京都薩摩藩邸へ移り、西郷吉之助の庇護をうける | |
二月三日 | 印藤聿に寺田屋襲撃事件と新宮馬之助の長州行きを伝える手紙を書く | |
五日 | 桂小五郎からの手紙に薩長同盟の裏書きをする | |
六日 | 桂小五郎に寺田屋襲撃事件を報告した手紙を書く | |
某日 | 中岡慎太郎の訪問をうける | |
この頃 | 中岡慎太郎(西郷吉之助とも)の仲介で楢崎龍と正式に結婚 | |
二九日 | 三吉慎蔵・楢崎龍らと共に伏見へ下る | |
三月一日 | 伏見から大坂へ下る | |
この頃 | 幕政批判の文書を記す | |
四日 | 三邦丸へ乗り込み翌日には出帆 | |
六日 | 三邦丸、下関へ寄港し中岡慎太郎と三吉慎蔵はここで下船する | |
八日 | 三邦丸、長崎へ至り楢崎龍と共に近藤長次郎の墓参をする | |
一〇日 | 三邦丸、鹿児島へ至り茶会を宿とする | |
某日 | 大藤太郎、龍馬襲撃をはかるも龍馬に気付かれ断念 | |
一六日 | 楢崎龍と日当山温泉にむかう | |
一七日 | 塩浸温泉にいたる | |
二八日 | 塩浸温泉で湯治中の小松帯刀を見舞い、霧島山へ登山し霧島温泉に宿泊 | |
二九日 | 霧島山山頂に遊び霧島神社に宿泊 | |
三〇日 | 霧島温泉へ戻る | |
四月一日 | 塩浸温泉へ戻る | |
八日 | 日当山へ戻る | |
一一日 | 浜の市へ戻る | |
一二日 | 鹿児島へ帰着 | |
一四日 | 薩摩藩の開成館をたずねる | |
五月一日 | ワイルウェフ号と共に長崎を出港したユニオン号、長州藩からの兵糧を積み、鹿児島へいたるも、ワイルウェフ号の遭難を龍馬に知らされる | |
二日 | ワイルウェフ号、五島列島中通島潮合崎に座礁し、池内蔵太・黒木小太郎らが死亡 | |
二九日 | 西郷吉之助らと面談 | |
同日 | 新宮馬之助から「備前兼光」の研ぎ代として四両三分借りる | |
六月一日 | 楢崎龍と共にユニオン号へ乗り込む | |
四日 | ユニオン号、鹿児島を出港し長崎で楢崎龍を小曽根英四郎方に託す | |
同日 | 下関へ向けて長崎を出港 | |
一四日 | 下関へいたる | |
同日 | 高杉晋作と面談、ユニオン号での小倉幕府軍攻撃を承諾 | |
一五日頃 | 桂小五郎と面談、搬送して来た兵糧を貰いうける | |
一六日 | 品川省吾と面談し高杉晋作とも面談 | |
一七日 | ユニオン号、幕府軍との海戦に参加 | |
二〇日 | 白石正一郎方をたずね高杉晋作と面談 | |
同日 | 高杉晋作と船へ乗り込み下関へむかう | |
同日 | 高杉晋作と白石正一郎方へ帰省する | |
二五日 | 山口で藩主毛利敬親に拝謁、羅紗生地などを拝領し、七月三日まで滞在 | |
七月三日 | 小郡より下関へむかう | |
四日 | 下関へ到着した旨を桂小五郎に伝えた手紙を書く | |
二七日 | 桂小五郎に長崎での幕府軍の情報を伝えた手紙を書く | |
二八日 | 三吉慎蔵へ社中の窮乏を伝えるとともに、大洲藩が五代才助に依頼し、水夫と機関士の借用を社中へ申し入れて来た旨を伝える手紙を書く | |
八月一三日 | 森玄道・伊藤九三らに小曽根英四郎の身柄保全を依頼した手紙を書く | |
一五日 | 長崎へいたる | |
一六日 | 小曽根英四郎の身柄保全のため入江屋重平の番頭・与平を下関へ派遣する | |
同日 | 三吉慎蔵にあて幕府が海峡封鎖を解いた旨を伝えた手紙を書く | |
二五日頃 | 越前藩士下山尚をたずね面談 | |
末頃 | 下山尚の訪問をうけ面談 | |
一〇月三日 | 龍馬ら社中の七人、薩摩藩から給金(三両二分)を受け取る | |
二二日 | 帆船購入のためプロシアの商人チョルチーと面談 | |
二三日 | 船の検分を行う | |
二四日 | 薩摩藩留守居役汾陽五郎右衛門をたずねる | |
二八日 | のちに「太極丸」と名付けられる船をチョルチーより受け取る | |
一一月某日 | 五代才助・広沢兵助らと会見し「商社示談箇条書」を作成 | |
某日 | 溝淵広之丞と対面 | |
一五日 | 小銃の購入について溝淵広之丞と面談 | |
一六日 | 小銃購入の依頼状を溝淵広之丞へ書き、変名「才谷梅太郎」を使用する | |
二〇日 | 「取巻抜六」と自称し、寺田屋登勢にあて手紙を書く | |
一二月四日 | 小曽根英四郎宅で家伝類の贈与を希望した手紙を権平にあて書く | |
同日 | 乙女にあて、楢崎龍の事や霧島山の事などを伝えた手紙を書く | |
同日 | 家族にあて、この一年を振り返った手紙を書く | |
某日 | 桂小五郎に溝淵広之丞を紹介し長州と土佐の復交をはかる | |
一五日 | 伊藤九三方より桂小五郎に面会を求める | |
二〇日 | 伊藤九三へ溝淵広之丞の長崎行にさいし、船便の用意を依頼した手紙を書く | |
二五日 | 国島六左衛門が「いろは丸」購入の責任をとって自刃し、その遺体と対面 |
(平成某年某月某日識)