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坂本龍馬の目録

慶応年間

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坂本龍馬

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大政奉還運動開始〜薩土盟約締結まで〜


 史料上、幕府による自主的な政権奉還(大政奉還)を龍馬が一つ政策として最初に提起したのは慶応二年(1866年)八月下旬のこととされる。龍馬は長崎を訪れた福井藩士下山尚にむかい政権奉還ノ策ヲ速ヤカニ春岳公二告ゲ、公一身之レニ当タラバ幸ヒニ済スベキアランと語り、福井藩老公松平春嶽の働きかけによる幕府の政権返上を願った。この提案は熊本の横井小楠に今日ノ事豈他二アランヤ、天下此ノ任ニ當ル岳公ヲ置テ求ム可カラスと手を打って激賞されたものの、春嶽はすでに大政奉還をふくむ七ヶ条からなる提言 [1]高木不二『横井小楠と松平春嶽 幕末維新の個性2』の言葉を借りれば「将軍代替わりを好機として、幕府みずからの手で内外の主権を朝廷に返上することを求めた大政奉還論」。 を宗家相続直前の一橋(徳川)慶喜におこない、事やぶれたばかりで、下山からこの報告を聞いた十月下旬然ルカ、余モ亦思フ所アリ。汝ジ宜シク執政ニ告グベシと応じるにとどまった [2]下山尚『西南紀行』。松浦玲『坂本龍馬 岩波新書』。この春嶽がおこなった七ヶ条の写しを龍馬は桂小五郎(木戸孝允、当時は準一郎が通称)からのちに提供され入手している(松浦玲『坂本龍馬 岩波新書』。慶応三年正月十五日木戸孝允より龍馬宛書簡)。

 同じ八月には京都の公家岩倉具視も「天下一新策密奏書」のなかで朝廷ヲ以テ国政施行根軸ノ府ト為スための幕府による政柄(政権)奉還を訴えており、同年十月には土佐浪士中岡慎太郎も「窃に知己に示す論」で徳川を助くる今日の策は他無し。政権を朝廷に返上し自ら退いて道を治め、臣子の分を尽すにあり。[中略]諸侯若し信あらば今日暴威を助けて自滅に至らしめんよりは早く[幕府に]忠告し、一大諸侯となり永久の基を立てしむべしと本質的に龍馬同様の論を説いている。

 この春嶽・龍馬・岩倉・中岡らの意見は、諸大名の厭戦気分のなか行われた幕長戦争の不首尾(六〜八月)、将軍徳川家茂の薨去と同職の空位(七〜十二月)、幕府側の実質的敗北による休戦(九月)を背景としており、この潮流は慶喜の将軍職就任・孝明天皇の崩御(ともに十二月)など、情勢の変化により止む [3]例えば岩倉は、慶応三年二月初旬時点になると「朝幕大に風雲会合之勢を以而皇国を維持する之道、不相而は不可叶」と幕府の存在を否定しない姿勢に変化しており(佐々木克『幕末政事と薩摩藩』。慶応三年二月七日岩倉具視書簡案。)、龍馬へ春嶽の七ヶ条(注2参照)を送った桂にしても当時と現在では状況がちがい、書簡では七ヶ条そのものへ具体的に踏み込まず、幕府に反正をもとめた春嶽の姿勢を(桂が第三次長州征伐を懸念するゆえもあって)讃えるという形になっている(慶応三年正月十五日木戸孝允より龍馬宛書簡)。

 その後、龍馬と大政奉還運動との関わりについては巷間「船中八策」と称される資料 [4]「船中八策」と「新政府綱領八策」の呼称は岩崎英重が『坂本龍馬関係文書』で使いはじめて以降普及した呼び名。それまでは諸書により「建議案十一箇條」・「坂本の八策」・「龍馬の八策」などと呼ばれ一定しない(菊地明『坂本龍馬進化論』ほか)。 をもとに後藤象二郎への政策提言者として語られるのだが、その「船中八策」は現在後世の創作 [5]知野文哉『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾』。同書の結論だけを言うと「船中八策」は明治になってから龍馬の「新政府綱領八策」に大政奉還事項を付け足して、当時の実録体通俗明治維新史の文章を参考に弘松宣枝がまとめたものとされる。 と目される向きが支配的なので、ここでは同資料を離れて話しをすすめる。なお伝記では弘松宣枝『阪本龍馬』(明治二九年-1896年-)が大政奉還運動の提案者を龍馬とする最初のものとされるが、同書は「建議案十一箇條」 [6]「十一箇條」と称してはいるが「九、十、十一條は不詳」とする。 という今でいう「船中八策」の原型を龍馬が後藤象二郎に示すというかたちで事の流れを説明しており、脚注4と関わってここではふれない。

 龍馬が大政奉還を以前からの主張いわば持論としていたであろうことは先記の『西南紀行』や元治元年(1864年)十月以降ほぼ没交渉と思われる勝海舟の談話(明治二九年-1896年-)[7]海舟語録』「[問]土佐が大政奉還を建白したのは矢張り大勢を洞観しての卓見か又はただ小策に出たものですか。[答]あれは坂本が居たからの事だ」 から確認および推察ができ、龍馬から後藤への入説があったらしきことは慶応三年前半長崎にいたと思われる陸奥陽之助(宗光、当時は源二郎が通称か)が明治三〇年(1897年)下記のように伝える [8]ちなみに後藤自身による回顧談は明治二一年(1888年)市木四郎・寺島宗則らの取材による談があるくらいのようで、そちらには提言について特別な言及はみられない(平尾道雄『土佐維新回顧録 平尾道雄選集 第一巻』)。

●『後藤伯

坂本に至りては一方に於ては薩長土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて幕府に対抗する一大勢力を起こさんとすると同時に、直ちに幕府の内閣につき平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸侯を率いて朝廷に朝し事実に於て太政大臣たらしめ名に於て諸侯を平等の臣族たらしめ、以て無血の革命を遂げんと企てぬ。彼れ固より土佐藩の一浪士のみ、声望、以て幕府を動かすに足らざる也。而して彼は此事を行うに方りて後藤こそ最も適当の人物にして其の沈重の態度、其壮快の弁、其大事を軽視するの大胆、而して幕府の親頼を有する容堂公の寵信を得たる、皆な他に求むべからざる資格なるを見て、其競輪を後藤に説くや、彼は何の躊躇する所なく、坂本の説を容れ、進んで之を慶喜に説かんとするに至りぬ。

 この文章は後藤伯[後藤象二郎伯爵]も六十年の星霜に打たれ、新聞紙は往々其余命幾何もなからんとするを報じるなか知名の士が末路甚だ振はざるを見聞するは人情忍びざるゆえ筆をとったもので、文章全体は後藤の顕彰にこそ力点をおく。ゆえに上掲部分は陸奥自身の率直な認識を語るものと思うがどうだろう。

 いづれにせよ今度は下山尚の時とちがい龍馬が大政奉還を提起した時期も後藤が決断した時期も明確にはわからない。以下に龍馬・後藤、さらに彼らに同行して上京することになる海援隊士長岡謙吉 [9]慶応三年後半ごろから龍馬と親しくなる佐々木三四郎(高行)は『佐佐木老侯昔日譚』のなかで長岡謙吉を大政奉還運動の発案者とし、龍馬が後藤に話し込むことで運動が始まったと説明している。 の動きを、土佐藩船夕顔の長崎到着から入京まで(共同行動の場合に限り)整理してみる。

慶応三年(1867年)
五月十二日土佐藩船夕顔が長崎に到着、四侯会議のため在京中の山内容堂から後藤象二郎に上京の命が届く。(『思出草』・慶応三年五月二八日お龍宛龍馬書簡)
五月十五日龍馬・長岡謙吉・他、紀伊藩といろは丸事件の談判を行う。(『イロハ丸航海日記、付録草稿』)
五月十六日龍馬・長岡・他、この日も紀伊藩といろは丸事件の談判を行う。(『イロハ丸航海日記、付録草稿』)
五月二一日龍馬、土佐商会へ長岡を使いとして派遣し書籍・薬種など引き渡し願いを出す。(『瓊浦日歴』)
五月二二日龍馬・長岡・後藤・他、紀伊藩といろは丸事件の談判を行う。後藤はこの日が初参加。(『イロハ丸航海日記、付録草稿』)
同日龍馬・後藤・他、イギリス海軍提督をまじえオールト宅で面談。(『瓊浦日歴』)
五月二六日龍馬・後藤、紀伊藩勘定奉行茂田一次郎をたずね面談。(『瓊浦日歴』・慶応三年五月二八日お龍宛龍馬書簡)
五月二七日龍馬が紀伊藩船将高柳楠之助をたずね、後藤が茂田をたずね面談。(慶応三年五月二七日高柳楠之助宛龍馬書簡。慶応三年五月二八日お龍宛龍馬書簡)
五月二八日龍馬、お龍へ後藤から上京に同行してくれるよう頼まれた旨を報じ併せて此度の上京ハ誠ニたのしみニて候と伝える。(慶応三年五月二八日お龍宛龍馬書簡)
六月二日龍馬、後藤方に呼ばれ岩崎弥太郎をまじえ三人で密話。(『公用日記』)
六月三日龍馬、後藤に面談ののち五代才助をたずね小銃の代価について相談。(『瓊浦日歴』)
六月九日龍馬は岩崎から馬乗袴、後藤は同じく茶器数品を贈られ、長岡・他とともに藩船夕顔で長崎を出航。(『瓊浦日歴』・『海援隊日史』)
六月十二日龍馬・長岡・後藤・他、十日に下関を経て兵庫へ到着。午後に大坂藩邸へ入り後藤・他は上京。龍馬・長岡は大坂にとどまる。(『海援隊日史』)

 土佐藩老公山内容堂から上京の命が届いて実際に上方へ到着するまできれいに一ヶ月、そのうちには「いろは丸事件」 [10]海援隊が運用する大洲藩所属船いろは丸と紀伊藩船明光丸の衝突事件。 解決に忙殺された時間も多いが、五月二八日以前に龍馬の助力を必要とするらしい上京後の方針も粗方決まっていたようで、行動計画を煮詰める時間なら相応取れたように思われる。

夕顔 絵馬(絵馬仁井田神社蔵 写真高知市立自由民権記念館蔵 『図説 坂本龍馬』戎光祥出版より)

 六月十三日夜、後藤は京都河原町の土佐藩邸に到着。しかし呼びよせたはずの容堂は四侯会議 [11]幕長戦争後における長州藩の取り扱いと開港期限のせまる兵庫開港問題を主要議題とする会議。四侯とは島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂らの四名のこと。 が薩摩藩の主導に引きずられるのを嫌ってか既に土佐へ帰国しており、この日は御側御用役寺村左膳らに挨拶をするにとどまった [12]寺村左膳道成日記』六月十三日条。。遅れて京に入った龍馬と長岡は酢屋嘉兵衛方を宿舎としたらしく [13]慶応三年六月二四日坂本乙女・おやべ宛龍馬書簡「当時私ハ京都三条通河原町一丁下ル車道酢屋に宿申候」。 十五日には龍馬・後藤それぞれが中岡に面談、情勢認識をかね情報交換をおこなったものと思われる [14]行行筆記』。中岡の記述は後藤から「昨夜政府議論決す云々」、龍馬から「土州いろは丸一件、紀州償金を出す云々」ことのみを記すが、後藤も龍馬も一方的な通知のためだけにわざわざ中岡方へ足を運んだわけではないだろう。

 十七日、在京中の大目付役福岡藤次(考弟)からも情勢を聞いた後藤は、この日おなじく藩の参政職にある真辺栄三郎・福岡・寺村らを前に大政奉還建白の議を披露した [15]さきの脚注に引いた後藤発言(「昨夜政府議論決す」)からは既に藩論が決したかのように受けとれるものの寺村の日記による限り話しを切り出したのはこの日。ただ『伊達宗城在京日記』慶応三年六月十五日条をみると十四日夜に土佐藩重役のあいだで何かしらの議論(内容不明)はあったようだ。。この議論は容堂の帰国以来、国事むきの仕事が減り、日記にも遊行記事の目立つ三人にとって目の醒めるような出来事であったらしく国家挽回ノ英断、之ヲ捨テ又他二アルベカラズと意見が一決。そして土佐本国の国論をまとめるためだろう、十九日には容堂の在京中から現在にいたるまでの事情説明書類(手続キ書)の作成が寺村の担当ではじまった [16]『寺村左膳道成日記』慶応三年六月十七日条から十九日条。

 一方『維新土佐勤王史』によると龍馬は十五日の面談以降、中岡とともに薩摩藩への根まわしに当たっていたようで二〇日には薩摩藩の小松帯刀と後藤自身が面談、建白への同意のとりつけ、二二日には土佐藩と薩摩藩の代表者による会合がもたれることになった。

 のちに「薩土盟約」と称されるこの会合の場に出席したのは後藤・福岡・真辺・寺村の土佐藩四名、小松・西郷吉之助(隆盛)・大久保一蔵(利通)の薩摩藩三名、さらに根まわしに当たった仕掛人という立場ゆえか龍馬・中岡の二名が別枠で加わり [17]寺村左膳道成日記』六月二二日条。『海援隊日史』。 ここに幕末に語られたいくつかの構想を土台とした、その到達点(佐々木克『坂本龍馬とその時代』)とも評価される新政府・新国家構想を生む [18]ただし今に残る約定文は二二日以降、何度かの修正を経て完成したもの。佐々木たちは最終的に七月一日、修正草案にも薩摩藩の同意を伝えられ安堵している(『保古飛呂比』)。

●『海援隊日史』(京都国立博物館『国指定重要文化財 坂本龍馬関係資料』)[19]原文は「網」の文字が朱書き。正文と思われる『玉里島津家史料補遺』収載文は冒頭に「網」の字を持たず、「条約旨主」が「旨主」、「宇内形勢」が「宇内ノ形勢」、「惟」が「唯」、「天地間有ル」が「天地間アル」、「心力ヲ協力シ」が「心力ヲ協一シ」となっていて違いがある。

 網
 条約旨主
一、国体ヲ協正シ万世万国ニ亘テ不恥、是第一義。
一、王制復古ハ論無シ、宜ク宇内形勢ヲ察シ参酌協正スベシ。
一、国ニニ帝無シ、家ニニ主ナシ、政刑惟一君ニ帰スベシ。
一、将職ニ居テ政柄ヲ執ル、是天地間有ル可ラザルノ理也。宜ク侯列ニ帰シ翼載ヲ主トスベシ。
 右方今ノ急務ニシテ天地間常有ノ大条理ナリ。心力ヲ協力シ斃テ後已ン、何ゾ成敗利鈍ヲ顧ニ暇アランヤ。
 皇慶応丁卯六月

●『海援隊日史』(京都国立博物館『国指定重要文化財 坂本龍馬関係資料』)[20]原文は「目」と傍書が朱書き。正文と思われる『玉里島津家史料補遺』は冒頭に「目」の字を持たず「約定書」、「国ニ二帝」が「国ニ二王」、「 ト為ル」が「体ト為ル」、「幕府ヘ帰ス」が「幕府ニ帰ス」、「皇帝在ルヲ」が「皇帝在ヲ」、「考スルニ」が「考フルニ」、「然ラバ則」が「然則」、「特立スルモノト」が「特立スル者ト」、「相弁 」が「相弁難」、「皇州之奐復」が「皇国之興復」、「万民之為メニ」が「万民之為ニ」、「政ヲ為ントシテ」が「政ヲ為ントテ」、「此法則ヲ定ル定ル事」が「此法則ヲ定ル定ルコト」、「庶民ニ至ルマデ」が「庶民ニ至ル迄」、「帰スベキハ」が「帰ス可キハ」、「諸国ノ士太夫」が「諸侯ノ士太夫」、「新約定ヲ結ビ」が「新約定ヲ立テ」、「律例アリト雖ドモ」が「律例アリトイヘドモ」、「弊風ヲ一新シテ」が「弊風ヲ一新改革シテ」、「愧ベカラザル国本ヲ建ン」が「愧ザルノ国本ヲ建ン」、「士太夫ハ私道」が「士大夫ハ私道」、「既往ノ是非」が「既往是非」、「右ニ議定セル」が「右議定セル」、「慶応三年六月」が「慶応三年丁卯六月」となっていて違いがある。

 目
 方今
 皇国ノ務、国体制度ヲ糺制シ万国ニ臨テ不恥、是第一義トス。其要王制復古、宇内ノ形勢ヲ参酌シ、天下後世ニ到テ猶其遺憾ナキノ大条理ヲ以テ処セン。
 国ニ二帝ナク家ニ二主ナシ、政権一君ニ帰ス、是其大条理、我
 皇家綿〻一系万古不易、然ルニ古郡県ノ政変ジテ今封建ノ ト為ル、大政逐ニ幕府ヘ帰ス。上
 皇帝在ルヲ不知、是ヲ地球上ニ考スルニ其国体制度、如玆者アラン歟。然ラバ則制度一新、政権
 朝ニ帰シ、諸侯会議、人民共和、後庶幾以テ万国ニ臨テ不恥、是ヲ以テ初我 皇国ノ国体特立スルモノト云ベシ。若二三ノ事件ヲ執リ喋々曲直ヲ抗論シ
 朝幕諸侯倶ニ相弁 枝葉ニ馳セ小条理ニ止ル、却テ
 皇国ノ大基本ヲ失ス、豈本志ナランヤ。爾後執心公平所見万国ニ在ス。此大条理ヲ以テ此大基本ヲ立ツ。今日堂〻諸侯ノ責ノミ成否顧ル所ニアラズ斃而後已ン。
 今般更始一新我
 皇州之奐復ヲ謀リ、奸邪ヲ除キ明良ヲ挙ゲ、治平ヲ求メ、天下万民之為メニ寛仁明恕ノ政ヲ為ントシテ此法則ヲ定ル(一ニハ、政ヲ為ント共ニ心ヲ盟シテ左ノ文ヲ作ル、共ニ神明ニ誓テ左ノ文ヲ作ル、云々)事左ノ如シ。
一、天下ノ大政ヲ議定スル全権ハ朝廷ニ在リ。我 皇国ノ制度法則一切之万機、京師ノ議事堂ヨリ出ルヲ要ス。
一、議事院ヲ建立スルハ宜ク諸藩ヨリ其入費ヲ貢献スベシ。
一、議事院上下ヲ分チ、議事官ハ上公卿ヨリ下陪臣庶民ニ至ルマデ、正義純粋ノ者ヲ撰挙シ、尚且諸侯モ自ラ其職掌ニヨリテ上院ノ任ニ充ツ。
一、将軍職ヲ以テ天下ノ万機ヲ掌握スルノ理ナシ。自今宜ク其職ヲ辞シテ諸侯ノ列ニ帰順シ、政権ヲ朝廷ニ帰スベキハ勿論ナリ。
一、各港外国ノ条約ハ兵庫港ニ於テ新ニ 朝廷ノ大臣、諸国ノ士太夫ト衆合シ、道理明白ニ新約定ヲ結ビ、誠実ノ商法ヲ行フベシ。
一、朝廷ノ制度法則ハ往昔ヨリ律例アリト雖ドモ、当今ノ時勢ニ参シ或ハ当ラザル者アリ。宜ク其弊風ヲ一新シテ、地球上ニ愧ベカラザル国本ヲ建ン。
一、此 皇国興復ノ議事ニ関係スル士太夫ハ私道ヲ去リ、公平ニ基キ、術策ヲ設ケズ、正実ヲ貴ビ、既往ノ是非曲直ヲ不問、人心一和ヲ主トシテ此議論ヲ定ムベシ。
 右ニ議定セル盟約ハ、方今之急務、天下ノ大事之如クモノ無シ。故ニ一旦盟約決議ノ上ハ、何ゾ其事ノ成敗利鈍ヲ視ンヤ。唯一心協力、永ク貫徹セン事ヲ要ス。
 慶応三年六月

 この約定文の執筆者は誰か。『寺村左膳道成日記』六月二三日条にみえる過日左膳執筆せる書取、尚又彼是添削ス書取を薩土盟約約定文草案と解するのであれば寺村が主たる執筆者ということで落ちつく。しかし、これを十九日に先記した手続キ書と同じものと考えた場合には見方が違ってくる。ややこしいことに土佐から二一日に上京して来た大目付佐々木三四郎(高行)は『保古飛呂比』同月二三日条で大政返上云々ノ建白書類を取り扱っており、これが文面通り大政奉還建白書の草案を指すのか、それとも時期から観て薩土盟約の草案と解するのか、この辺は意見のわかれることが多い [21]例えば青木忠正「土佐山内家重臣・寺村左膳」(例えば『それぞれの明治維新』)・佐々木克『幕末政治と薩摩藩』・松浦玲『坂本龍馬 岩波新書』・松岡司「大政奉還建白書の浄書者、長岡謙吉と藤本準七」(『土佐史談 246号』)など。 。ちなみに『維新土佐勤王史』は龍馬の「船中八策」の存在を前提としたうえで、佐々木の大政返上云々ノ建白書類をそのまま大政奉還建白書草案として扱い、薩土盟約はまず上掲の部分が会合の場で成り、以下の部分を福岡と薩摩藩浪士田中幸介(中井弘)が相談のうえ作成したもの [22]福岡考弟手記』にも薩土盟約の文章が写されている(『龍馬のすべて』)ので、あるいはこれを根拠にした記述かも知れない。 としている。

海援隊日史(京都国立博物館蔵 『龍馬の翔けた時代』京都国立博物館より)

 会合は龍馬・中岡らの根まわしが功を奏したのか、後藤は薩摩藩の代表者らを前に先日之大条理を以、懇ニ説格別異論なくまとまった。寺村が記すこの文章からは後藤以外が聞き役にまわったかのおもむきが強く、それを反映してなのか二三日条に寺村は書取と記す。あるいは当日本人は記録のため聞き役・書き役に徹していたのかもしれない。

 斯くして長崎からの上京組、龍馬が企画や周旋にあたり、後藤が事実上の主役として藩外交に雄弁をふるい [23]当時の精力的な活動は『伊達宗城在京日記』などにも垣間見える。 、田中が前歴らしい活動 [24]寺村左膳道成日記』六月十八日条や『保古飛呂比』六月二四日で薩摩出身を活かした情報収集、英国への留学経験(海外知識)が活きたかも知れない「建白書」修正作業への参加など。 をしめして薩土盟約は結ばれた。『海援隊日史』の筆をとる長岡は、六月九日の長崎発から七月七日後藤の大坂発土佐帰国にいたるまでの期間を種々ノ記載スベキ事アリとしながら今ハ省文ニ従フとして種々記載すべきことを省く。しかし、そんな省文のなかで約定(長岡は檄文と記す)には強い関心をしめし、わざわざ全文を"海援隊"の日誌へ記録した。これは薩土盟約を長崎以来の龍馬・海援隊事業の一環として認めていたからに他あるまい。

 薩土盟約については「諸人伝記六十一・勤王家小伝」収載の龍馬伝 [25]木村幸比古「坂本龍馬の一級史料・坂本龍馬の事歴」によれば明治十六年(1883年)から明治二四年(1891年)以前成立。記事の増減から観て知野文哉『「坂本龍馬」の誕生』が「本格的な龍馬伝としては最も古いもの」とする山口文書館蔵『土藩坂本龍馬伝』よりも古い形の龍馬伝か(例えば同本が弘松宣枝『阪本龍馬』との関係で記事の有無を気に掛ける「新政府綱領八策」-龍馬の八義-の記載が諸人伝記の方にはみられないなど)。 や『土藩坂本龍馬伝』にも彼の事歴として早く記述があり、両伝の原筆者とされる高松太郎(龍馬の甥で海援隊士)もまた此年夏[慶応三年夏、龍馬は]京師ニ至リ、小松帯刀、西郷吉之助、後藤象次郎等ト会議シ、幕府ヲシテ大権ヲ王室ニ還サシメンコトヲ欲シ、藩主容堂ニ建言ス(「諸人伝記六十一・勤王家小伝」)・同年[慶応三年]夏、直柔又京師ニ到リ、在京ノ日、西郷・後藤等ト会議ヲ尽シ、幕府大検返上ノ事、又藩主容堂公ヘ数ヶ条建言ス(「土藩坂本龍馬傳」)と、龍馬や海援隊目線で薩土盟約(またはそれを内包される大政奉還)に注目していたことがわかる。

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  1. mark_utarnhotyu.png 高木不二『横井小楠と松平春嶽 幕末維新の個性2』の言葉を借りれば将軍代替わりを好機として、幕府みずからの手で内外の主権を朝廷に返上することを求めた大政奉還論
  2. mark_utarnhotyu.png 下山尚『西南紀行』。松浦玲『坂本龍馬 岩波新書』。この春嶽がおこなった七ヶ条の写しを龍馬は桂小五郎(木戸孝允、当時は準一郎が通称)からのちに提供され入手している(松浦玲『坂本龍馬 岩波新書』。慶応三年正月十五日木戸孝允より龍馬宛書簡)。
  3. mark_utarnhotyu.png 例えば岩倉は、慶応三年二月初旬時点になると朝幕大に風雲会合之勢を以而皇国を維持する之道、不相而は不可叶と幕府の存在を否定しない姿勢に変化しており(佐々木克『幕末政事と薩摩藩』。慶応三年二月七日岩倉具視書簡案。)、龍馬へ春嶽の七ヶ条(注2参照)を送った桂にしても当時と現在では状況がちがい、書簡では七ヶ条そのものへ具体的に踏み込まず、幕府に反正をもとめた春嶽の姿勢を(桂が第三次長州征伐を懸念するゆえもあって)讃えるという形になっている(慶応三年正月十五日木戸孝允より龍馬宛書簡)。
  4. mark_utarnhotyu.png 「船中八策」と「新政府綱領八策」の呼称は岩崎英重が『坂本龍馬関係文書』で使いはじめて以降普及した呼び名。それまでは諸書により「建議案十一箇條」・「坂本の八策」・「龍馬の八策」などと呼ばれ一定しない(菊地明『坂本龍馬進化論』ほか)。
  5. mark_utarnhotyu.png 知野文哉『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾』。同書の結論だけを言うと「船中八策」は明治になってから龍馬の「新政府綱領八策」(八ヶ条の「義」からなる龍馬自筆の史料)に大政奉還事項を付け足して、当時の実録体通俗明治維新史の文章を参考に弘松宣枝(坂本家の縁者で伝記『阪本龍馬』の著者)がまとめたものとされる。
  6. mark_utarnhotyu.png 「十一箇條」と称してはいるが九、十、十一條は不詳とする。
  7. mark_utarnhotyu.png海舟語録』。[問]土佐が大政奉還を建白したのは矢張り大勢を洞観しての卓見か又はただ小策に出たものですか。[答]あれは坂本が居たからの事だ
  8. mark_utarnhotyu.png ちなみに後藤自身による回顧談は明治二一年(1888年)市木四郎・寺島宗則らの取材による談があるくらいのようで、そちらには提言について特別な言及はみられない(平尾道雄『土佐維新回顧録 平尾道雄選集 第一巻』)。
  9. mark_utarnhotyu.png 慶応三年後半ごろから龍馬と親しくなる佐々木三四郎(高行)は『佐佐木老侯昔日譚』のなかで長岡謙吉を大政奉還運動の発案者とし、龍馬が後藤に話し込むことで運動が始まったと説明している。
  10. mark_utarnhotyu.png 海援隊が運用する大洲藩所属船いろは丸と紀伊藩船明光丸の衝突事件。
  11. mark_utarnhotyu.png 幕長戦争後における長州藩の取り扱いと開港期限のせまる兵庫開港問題を主要議題とする会議。四侯とは島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂らの四名のこと。
  12. mark_utarnhotyu.png寺村左膳道成日記』六月十三日条。
  13. mark_utarnhotyu.png 慶応三年六月二四日坂本乙女・おやべ宛龍馬書簡当時私ハ京都三条通河原町一丁下ル車道酢屋に宿申候
  14. mark_utarnhotyu.png行行筆記』。中岡の記述は後藤から昨夜政府議論決す云々、龍馬から土州いろは丸一件、紀州償金を出す云々ことのみを記すが、後藤も龍馬も一方的な通知のためだけにわざわざ中岡方へ足を運んだわけではないだろう。
  15. mark_utarnhotyu.png さきの脚注に引いた後藤発言(昨夜政府議論決す)からは既に藩論が決したかのように受けとれるものの寺村の日記による限り話しを切り出したのはこの日。ただ『伊達宗城在京日記』慶応三年六月十五日条をみると十四日夜に土佐藩重役のあいだで何かしらの議論(内容不明)はあったようだ。
  16. mark_utarnhotyu.png 『寺村左膳道成日記』慶応三年六月十七日条から十九日条。
  17. mark_utarnhotyu.png寺村左膳道成日記』。『海援隊日史』。
  18. mark_utarnhotyu.png ただし今に残る約定文は二二日以降、何度かの修正を経て完成したもの。佐々木たちは最終的に七月一日、修正草案にも薩摩藩の同意を伝えられ安堵している(『保古飛呂比』)。
  19. mark_utarnhotyu.png 原文は(物事の大要・要点の意)の文字が朱書き。正文と思われる『玉里島津家史料補遺』収載文は冒頭にの字を持たず、条約旨主旨主宇内形勢宇内ノ形勢天地間有ル天地間アル心力ヲ協力シ心力ヲ協一シとなっていて違いがある。
  20. mark_utarnhotyu.png 原文は(物事の細目・細部の意)と傍書(文中カッコ内の部分)が朱書き。正文と思われる『玉里島津家史料補遺』は冒頭にの字を持たず約定書国ニ二帝国ニ二王 ト為ル体ト為ル幕府ヘ帰ス幕府ニ帰ス皇帝在ルヲ皇帝在ヲ考スルニ考フルニ然ラバ則然則特立スルモノト特立スル者ト相弁 相弁難皇州之奐復皇国之興復万民之為メニ万民之為ニ政ヲ為ントシテ政ヲ為ントテ此法則ヲ定ル定ル事此法則ヲ定ル定ルコト庶民ニ至ルマデ庶民ニ至ル迄帰スベキハ帰ス可キハ諸国ノ士太夫諸侯ノ士太夫新約定ヲ結ビ新約定ヲ立テ律例アリト雖ドモ律例アリトイヘドモ弊風ヲ一新シテ弊風ヲ一新改革シテ愧ベカラザル国本ヲ建ン愧ザルノ国本ヲ建ン士太夫ハ私道士大夫ハ私道既往ノ是非既往是非右ニ議定セル右議定セル慶応三年六月慶応三年丁卯六月となっていて違いがある。
  21. mark_utarnhotyu.png 例えば青木忠正「土佐山内家重臣・寺村左膳」(『それぞれの明治維新』)・佐々木克『幕末政治と薩摩藩』・松浦玲『坂本龍馬 岩波新書』・松岡司「大政奉還建白書の浄書者、長岡謙吉と藤本準七」(『土佐史談 246号』)など。
  22. mark_utarnhotyu.png福岡考弟手記』にも薩土盟約の文章が写されている(『龍馬のすべて』)ので、あるいはこれを根拠にした記述かも知れない。
  23. mark_utarnhotyu.png 当時の精力的な活動は『伊達宗城在京日記』などにも垣間見える。
  24. mark_utarnhotyu.png寺村左膳道成日記』六月十八日条や『保古飛呂比』六月二四日で薩摩出身を活かした情報収集、英国への留学経験(海外知識)が活きたかも知れない建白書修正作業への参加など。
  25. mark_utarnhotyu.png 木村幸比古「坂本龍馬の一級史料・坂本龍馬の事歴」によれば明治十六年(1883年)から明治二四年(1891年)以前成立。記事の増減から観て知野文哉『「坂本龍馬」の誕生』が本格的な龍馬伝としては最も古いものとする山口文書館蔵『土藩坂本龍馬伝』よりも古い形の龍馬伝か(例えば同本が弘松宣枝『阪本龍馬』との関係で記事の有無を気に掛ける「新政府綱領八策」-龍馬の八義-の記載が諸人伝記の方にはみられないなど)。

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主要参考資料
坂本龍馬 岩波新書松浦玲岩波書店
近世日本国民史 明治維新と江戸幕府(二)講談社学術文庫徳富蘇峰講談社
海舟語録 講談社学術文庫松浦玲,江藤淳講談社
坂本龍馬関係文書(一)日本史籍協会叢書日本史籍協会東京大学出版協会
中岡慎太郎全集宮地佐一郎勁草書房
龍馬暗殺の真犯人は誰か木村幸比古新人物往来社
坂本龍馬日記(下)菊地明,山村竜也新人物往来社
坂本龍馬進化論菊地明新人物往来社
「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾知野文哉人文書院
幕末政治と薩摩藩佐々木克吉川弘文館
横井小楠と松平春嶽 幕末維新の個性2高木不二吉川弘文館
池道之助日記 現代語訳鈴木典子リーブル出版
龍馬のすべて平尾道雄高知新聞社
坂本龍馬全集宮地佐一郎光風社出版
陸奥宗光伯 小伝・年譜・付録文集陸奥宗光伯七十周年記念会霞関会
図説坂本龍馬土居晴夫,小椋克己戎光祥出版
寺村左膳道成日記(3)慶応三年寺村道成,横田達雄県立青山文庫後援会
土佐維新回顧録 平尾道雄選集 第一巻平尾道雄高知新聞社
勤王秘史佐佐木老侯昔日談(2)続日本史籍協会叢書佐佐木高行,津田茂麿東京大学出版会
維新土佐勤王史瑞山会日本図書センター
岩崎弥太郎日記岩崎弥太郎岩崎弥太郎岩崎弥之助伝記編纂会
伊達宗城在京日記伊達宗城,日本史籍協会東京大学出版会
岩倉具視関係文書 日本史籍協会叢書 各巻日本史籍協会東京大学出版協会
阪本龍馬弘松宣枝民友社
龍馬の翔けた時代 その生涯と激動の幕末 京都国立博物館
国指定重要文化財 坂本龍馬関係資料京都国立博物館京都国立博物館
土佐山内家重臣・寺村左膳(それぞれの明治維新 変革期の生き方青木忠正(佐々木克 編)吉川弘文館
大政奉還建白書の浄書者、長岡謙吉と藤本準七(『土佐史談 246号』)松岡司土佐史談会

(平成二九年三月五日識)

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