space_space.gif
 龍馬堂>>考龍馬伝>>慶応年間>>吉行の刀 
space_space.gif
坂本龍馬の目録

慶応年間

LinkMark直陰と直柔

LinkMark吉行の刀

LinkMark大政奉還運動開始

LinkMark梅毒のため?

考龍馬伝

LinkMark雑考

LinkMark天保六年〜安政五年

LinkMark安政五年〜文久二年

LinkMark文久二年〜元治元年

LinkMark慶応年間

坂本龍馬

LinkMark龍馬概略

LinkMark龍馬日譜

LinkMark龍馬詩評

LinkMark考龍馬伝

LinkMarkえにし

LinkMark関連本など

space_space.gif

吉行の刀〜遭難時の佩刀〜


◆平成二七年一二月二日 追記
 吉行については本稿の記述後、宮川禎一氏(平成二七年一一月一四日開催北海道坂本龍馬記念館龍馬祭特別記念講演「北海道へ渡った坂本龍馬の日本刀」)によってこれまで公にされていた刃長に訂正 [14] がくわえられ、あわせて刀は反りのほとんど無いものに見えるが、火災による変形を考慮すべきであること、切先に近い部分がやや内側に入って来ているという指摘があること、刃文については直線的に見えるが、焼成後に研がれた際のものであり刃ではない。再刃(再度の焼き入れ)でもない、刃文は詳細に観察すれば細かな丁子刃である(これはガラス越しで見て認識することは困難なほど)こと、切っ先に近い五分の二あたりに歪みがあることが天井蛍光灯の光の反射によって判る(これもガラス越しでは確認は困難だろう)ことなどが指摘・公表された。
 この新情報を踏まえ本稿であげた疑義に改めて考察をくわえるならば、木村幸比古氏が伝える戦前京都に存在したという林岸造蔵吉行は贋作、現在直刃にみえる刃文は正確にいうと研ぎ跡であり目を凝らせば丁子模様がわずかながら残存する、伝えられる刃長・古写真との差異は火災と火造り [15] による外形変化 [16] のため、一見すると見当たらない遭難時の刀傷は現在もわずかな歪みとしてその痕跡をとどめる、という理解で良いことになるのだろう。

 現在京都国立博物館が所蔵している龍馬佩刀と伝わる吉行の刀は刃長二尺三寸六厘(約71.5cm)、反り九厘九毛(約2.99cm)、目釘穴一個の打刀で、火災や盗難、子孫不心得による売却を危ぶむ坂本弥太郎(龍馬甥坂本直寛の養子)によって昭和六年(1931年)寄贈されたものという。
 この刀は京都国立博物館蔵坂本龍馬関係資料のなかにあって平成一一年(1999年)国の重要文化財の指定からもれた。落選の理由は公表されていないのでわからないが、京都国立博物館蔵吉行には龍馬の遺刀と折紙をつけることにいくつかの疑義が存在する。

 —つ、遭難当時の刀には伝来において異説があること。
 一つ、慶応三年(1867年)六月二四日付坂本権平宛龍馬書翰にみえる記述と現存の刃文に差異が察せられること。
 一つ、諸資料にうかがえる姿と現在の姿に違いがみられること。
などである。

『雋傑坂本龍馬』より龍馬遭難当時の佩刀並に拳銃

 まず伝来の異説は木村幸比古氏が「龍馬の佩刀・短銃・書簡を考証する」に記すところによると遭難時の吉行はまわりまわって京都祇園石段下に住む元産婦人科医で維新資料の収集家で著名な林岸造氏が買い取って収集していたそうで、それも林氏が病没するや遠縁の者が来て、収集品をすべて道具屋に売却してしまったそうである。

 戦前、林岸造邸二階展示室には遭難当時の吉行と鞘、鍔二枚とピストルが展示されていたそうで、これに間違いがなければ『雋傑坂本龍馬』掲載龍馬遭難当時の佩刀並に拳銃とも内容が一致する。また同書の所蔵者名記述坂本弥太郎氏蔵についてもウソかマコトか真実や否や林氏は龍馬に心酔してることもあって、書籍などに発表する場合は、はばかってか一切所蔵先を坂本家蔵と記載したという。

 一方、坂本弥太郎が所蔵していたとわかる京都国立博物館蔵吉行は大正二年(1913年)の釧路大火のさい焼損したものを打ち直し [01] 現在の姿にしたもので、刃文は見た目にもわかりやすい直刃 [02] を呈している。

 しかし慶応三年(1867年)六月二四日付坂本権平宛書翰によると龍馬佩刀当時の刃文は京地の刀剣家にも見せ候所、皆粟田口忠綱位の目利仕候と、吉行とは作風の点で相通じるとされる粟田口忠綱 [03] を引き合いに出していることから、吉行としては尋常の丁子 [04] を呈していたことが察せられる。
 この点、坂本家は打ち直しのさい刃文について再現の注文などはつけなかったのだろうか、それとも単に刃文には無頓着だっただけか、はたまた打ち直しに当たった刀工側の事情か [05]、いささかの疑問にはなる。

龍馬遭難当時の佩刀(上)と京都国立博物館蔵吉行(下)比較

 また諸資料が伝える吉行の姿と現在の姿にもいくつか違いがあって気に掛かる。
 上掲『雋傑坂本龍馬』掲載龍馬遭難当時の佩刀と京都国立博物館蔵吉行では目視でもわかるくらいに"反り"の深さが違い、その長さも岩崎鏡川の伝える二尺二寸(約66.6cm) [06] と京都国立博物館蔵吉行二尺三寸六厘とでは明確に差がある。
 さらに慶応三年当時、龍馬遭難の近江屋に駆けつけた谷守部は太刀折の所が六寸程鞘越しに切られて居る。身は三寸程刃が削れて鉛を切った様に削れて居ると刀について語っており [07]、この点も間に打ち直しを経ているとはいえ、現在ほぼ無傷にみえる京都国立博物館蔵吉行との差異が目につく。ひょっとすると三寸くらいの傷であれば打ち直しで綺麗に埋まってしまうということなのだろうか、詳しい方の知見を得たい。

 ちなみに管見の限り吉行を遭難当時の佩刀する説は大正五年(1916年)坂本龍馬中岡慎太郎五十年祭における岩崎鏡川の講演が初出で、同時代史料からの確認はとれない。それゆえ誤説を疑って疑えないこともないのだが、坂本弥太郎が明治四三年(1910年)に記した遺品預かり書の控えには吉行が遭難時の佩刀であることと刀傷の鞘が付属するむね注記されており、遭難時に龍馬が吉行を佩刀していなかったとする見方は坂本家の家伝自体が間違いだと証明できない限り成りたちにくい。

 この点かつて坂本家に龍馬の遺品として伝わっていた「北辰一刀流長刀兵法目録」[08] や備前長船勝光同宗光の脇差 [09] がいつの間にか他に流出していた例を鑑みると、吉行もまた坂本弥太郎の預かり知らないところで流出して(正確には別の吉行と入れ替わって)しまったのではないかと私的には憶測を勝手にたくましくする。なお坂本弥太郎は土佐勤王党の島村衛吉が佩刀であった埋忠明寿 [17] の刀を龍馬の遺品として扱っていた節が昭和四年(1929年)土佐勤王志士遺墨展覧会の目録からうかがえるので、坂本家では遺品の取り扱いに一時期(釧路大火のせいで?)混乱があったのかもしれない。

●吉行
銘:不明 刃長:二尺二寸(約66.6cm) 反り:不明  目釘穴:不明  区分:新刀 種別:打刀 所蔵先:行方不明
銘:吉行 刃長:二尺三寸六厘(約71.5cm) [18]  反り:九厘九毛(約0.29cm) 目釘穴:一個 区分:新刀 種別:打刀 所蔵先:京都国立博物館
 慶応二年(1866年)一二月四日付書簡にみえる国家難にのぞむの際には必、家宝の甲を分ち、又は宝刀をわかちなど致し候事。何卒御ぼしめしに相叶候品、何なり共被遣候という龍馬からの家宝拝領願いに応えるような形で坂本権平が贈った [10] 郷土刀。慶応三年六月二四日付龍馬書簡には先頃西郷より御送被遣候吉行の刀、此頃出京にも常帯仕候とあり、小美濃清明氏は「愛刀吉行」で慶応三年二月中に坂本権平から西郷吉之助、翌月中に西郷吉之助から中岡慎太郎、同月中に中岡慎太郎から龍馬にという受け渡しルートを各人の動向から想定しておられる。龍馬自身私しも兄の賜なりとてホコリ候刀で、遭難時に佩用していたのもこの吉行であったようだ。
 ちなみに吉行の刀工としての現代評価は"中の上"くらいに思われるが昔から土佐国での評価は高く、元禄ごろ編纂という『土佐物産往来』には人造品の第一に名を挙げられ、別にその鋭利さは南国新刀の第一とも評される。ちょうど二度目の土佐脱藩を許される時期に龍馬へと贈る兄からの品物としては、言外に強い思いの込められた一品に感じられる。
吉行
 慶安三年(1650年)生まれ。出身は陸奥国とも摂津国とも伝わる。刀工吉成 [11] の子で、同じく刀工の吉国 [12] は兄にあたる。森下平助を通称とし、のちには山岡家の養子に入る。作刀を摂津国の吉道 [13] にまなび、受領名は陸奥守を称した。元禄年間に土佐国へ招かれ高知城下に住居、九反田東鍛冶蔵にて作刀にあたったとされる。故あって土佐を辞し摂津へと帰国、宝永七年(1710年)に没した。主な刻銘は「吉行」・「陸奥守吉行」など。
 参考評価:『古今鍛冶備考』業物/『日本刀工辞典』中作/『日本刀辞典』350万円

mark_utarntop.png PageTop 


  1. mark_utarnhotyu.png 「焼き直し」や「再刃」とも呼ばれる刀に施される修復作業のこと。火災や刃こぼれなどによって痛んだ刀身を復活させることできる。
  2. mark_utarnhotyu.png 刀で「地鉄」と呼ばれている部位と「刃」部分との境目に生じる直線的な模様。
  3. mark_utarnhotyu.png 初代と二代目がおり、初代は播磨国出身。平安末から鎌倉に掛けて活躍した刀工粟田口国綱の後裔を称する。播磨から京都へ移住後さらに摂津国へと移り作刀、両代とも刀身に彫物をほどこした美観的にも優れた作品が多い。刃文は丁子を焼いたものが多く、この点が吉行の作風とも一致する。受領名は近江大掾や近江守。二代目は一竿子とも号す。
  4. mark_utarnhotyu.png 「地鉄」と「刃」の境目に植物の丁子の実(ないし丁字菊)のような模様があらわれている刃文。
  5. mark_utarnhotyu.png「刀剣杉田」刀剣・日本刀豆知識によると、作業的に無難なこともあって打ち直しのさいの焼き付けには直刃の選択が多い由。
  6. mark_utarnhotyu.png 論考「坂本と中岡の死」にみえる長さ。「腰の秋水」補注2に記した通り私的には当てにして良い数字だと思っている。
  7. mark_utarnhotyu.png 岩崎鏡川によると明治三九年(1906年)坂本龍馬・中岡慎太郎四十年追弔会での講演における発言。
  8. mark_utarnhotyu.png 流出後アメリカはシカゴ在住の邦人より昭和三七年(1962年)高知県庁に寄贈。平成二七年(2015年)現在アクトランド龍馬歴史館が所蔵する。
  9. mark_utarnhotyu.png 昭和四年(1929年)から平成二七年(2015年)まで暫くのあいだ所蔵先が不明だった。現在は北海道在住の坂本家関係者が所蔵している。
  10. mark_utarnhotyu.png 文久二年(1862年)の龍馬が脱藩のさい姉の坂本栄より吉行を贈られたとする説もあるが、栄墓碑の生没年が脱藩の時期と一致しない故をもって現在この説をとる人はまずいない。ちなみにこの説は郷士坂本家初代とされる坂本直海(龍馬からみれば曾祖父)の弟直清家のさらにその分家筋に伝わっていた話しなので事が正確でないのもまた宜な気がする。
  11. mark_utarnhotyu.png 陸奥国中村藩領宇陀郡の出身。のち摂津国に移り吉道に作刀を学んだ。受領名は播磨守。
  12. mark_utarnhotyu.png 通称は森下孫兵衛。この人も出身には陸奥国説、摂津国説、さらに近江国説まであってややこしい。吉成・吉行と同じく摂津国の吉道に作刀をまなび、彼も刃文には丁字を焼いたものが多い。のちに吉行の推薦で土佐藩の御抱え工となった。受領名は「上野守」。
  13. mark_utarnhotyu.png 通称は三品宇右衛門。摂津国出身。丹波守吉道(通称は三品金右衛門)の子。この人も刃文には丁字を焼いたものが多く、特に粟田口忠綱とは作風に相通じるものがあるとされる。受領名は大和守。なお「吉道」銘の刀工はこの近代に多く、油断してると混乱する。
  14. mark_utarnhotyu.png これまで二尺三寸六厘(約71.5cm)とされていた長さが71.1cm(約二尺三寸四厘)に改められた。
  15. mark_utarnhotyu.png 日本刀制作工程の一つ。小槌やセンスキ鑢といった器具で刀の形状を整える作業。
  16. mark_utarnhotyu.png 岩崎鏡川がつたえる長さ二尺二寸(約66.6cm)に間違いがなければ、そこから京都国立博物館蔵吉行71.1cm(約二尺三寸四厘)への変化には正直驚きを禁じ得ない。仮にそれが間違いであっても(上掲の画像比較からもわかる通り)外見上はもはや別の刀といっていい趣きがある。
  17. mark_utarnhotyu.png 吉行の件と同日に埋忠明寿についても情報が増えた。詳しくは「腰の秋水」を参照していただきたい。
  18. mark_utarnhotyu.png 補注14参照。

mark_utarntop.png PageTop 


主要参考資料
坂本龍馬関係文書(2)日本史籍協会叢書日本史籍協会東京大学出版会
坂本龍馬とその一族土居晴夫新人物往来社
龍馬暗殺の真犯人は誰か木村幸比古新人物往来社
坂本龍馬と刀剣小美濃清明新人物往来社
定本坂本龍馬伝 青い航跡松岡司新人物往来社
日本刀辞典得能一男光芸出版刊
高知県人名事典 新版『高知県人名事典新版』刊行委員会高知新聞社
坂本龍馬全集 増補四訂版宮地佐一郎光風社出版
雋傑坂本龍馬坂本中岡銅像建設会象山社
坂本家系考土居晴夫土佐史談会
日本刀工辞典藤代義雄藤代商店
土佐遺聞録寺石正路開成舎
坂本中岡両先生五十年祭記念講演集坂本中岡両先生遭難五十年記念祭典会坂本中岡両先生遭難五十年記念祭典会
土佐勤王志士遺墨集青山会館名著出版
龍馬の翔けた時代 その生涯と激動の幕末 京都国立博物館
龍馬の脇差しが高知に到着 高知県立記念館で来月から展示へ 高知新聞
北海道へ渡った坂本龍馬の日本刀宮川禎一北海道坂本龍馬記念館

(平成二七年一一月一五日識/平成二七年一二月二日追記)

mark_utarntop.png PageTop 

space_space.gif
space_space.gif
 龍馬堂>>考龍馬伝>>慶応年間>>吉行の刀 
space_space.gif