刀は反りのほとんど無いものに見えるが、火災による変形を考慮すべきであること、
切先に近い部分がやや内側に入って来ているという指摘があること、
刃文については直線的に見えるが、焼成後に研がれた際のものであり刃ではない。再刃(再度の焼き入れ)でもない、刃文は詳細に観察すれば細かな丁子刃である(これはガラス越しで見て認識することは困難なほど)こと、
切っ先に近い五分の二あたりに歪みがあることが天井蛍光灯の光の反射によって判る(これもガラス越しでは確認は困難だろう)ことなどが指摘・公表された。
現在京都国立博物館が所蔵している龍馬佩刀と伝わる吉行の刀は刃長二尺三寸六厘(約71.5cm)、反り九厘九毛(約2.99cm)、目釘穴一個の打刀で、火災や盗難、子孫不心得による売却を危ぶむ坂本弥太郎(龍馬甥坂本直寛の養子)によって昭和六年(1931年)寄贈されたものという。
この刀は京都国立博物館蔵坂本龍馬関係資料のなかにあって平成一一年(1999年)国の重要文化財の指定からもれた。落選の理由は公表されていないのでわからないが、京都国立博物館蔵吉行には龍馬の遺刀と折紙をつけることにいくつかの疑義が存在する。
—つ、遭難当時の刀には伝来において異説があること。
一つ、慶応三年(1867年)六月二四日付坂本権平宛龍馬書翰にみえる記述と現存の刃文に差異が察せられること。
一つ、諸資料にうかがえる姿と現在の姿に違いがみられること。
などである。
まず伝来の異説は木村幸比古氏が「龍馬の佩刀・短銃・書簡を考証する」に記すところによると遭難時の吉行はまわりまわって京都祇園石段下に住む元産婦人科医で維新資料の収集家で著名な林岸造氏が買い取って収集していた
そうで、それも林氏が病没するや遠縁の者が来て、収集品をすべて道具屋に売却してしまった
そうである。
戦前、林岸造邸二階展示室には遭難当時の吉行と鞘、鍔二枚とピストルが展示されていたそうで、これに間違いがなければ『雋傑坂本龍馬』掲載龍馬遭難当時の佩刀並に拳銃
とも内容が一致する。また同書の所蔵者名記述坂本弥太郎氏蔵
についてもウソかマコトか真実や否や林氏は龍馬に心酔してることもあって、書籍などに発表する場合は、はばかってか一切所蔵先を坂本家蔵と記載した
という。
一方、坂本弥太郎が所蔵していたとわかる京都国立博物館蔵吉行は大正二年(1913年)の釧路大火のさい焼損したものを打ち直し [01] 現在の姿にしたもので、刃文は見た目にもわかりやすい直刃 [02] を呈している。
しかし慶応三年(1867年)六月二四日付坂本権平宛書翰によると龍馬佩刀当時の刃文は京地の刀剣家にも見せ候所、皆粟田口忠綱位の目利仕候
と、吉行とは作風の点で相通じるとされる粟田口忠綱 [03] を引き合いに出していることから、吉行としては尋常の丁子 [04] を呈していたことが察せられる。
この点、坂本家は打ち直しのさい刃文について再現の注文などはつけなかったのだろうか、それとも単に刃文には無頓着だっただけか、はたまた打ち直しに当たった刀工側の事情か [05]、いささかの疑問にはなる。
また諸資料が伝える吉行の姿と現在の姿にもいくつか違いがあって気に掛かる。
上掲『雋傑坂本龍馬』掲載龍馬遭難当時の佩刀と京都国立博物館蔵吉行では目視でもわかるくらいに"反り"の深さが違い、その長さも岩崎鏡川の伝える二尺二寸
(約66.6cm) [06] と京都国立博物館蔵吉行二尺三寸六厘とでは明確に差がある。
さらに慶応三年当時、龍馬遭難の近江屋に駆けつけた谷守部は太刀折の所が六寸程鞘越しに切られて居る。身は三寸程刃が削れて鉛を切った様に削れて居る
と刀について語っており [07]、この点も間に打ち直しを経ているとはいえ、現在ほぼ無傷にみえる京都国立博物館蔵吉行との差異が目につく。ひょっとすると三寸くらいの傷であれば打ち直しで綺麗に埋まってしまうということなのだろうか、詳しい方の知見を得たい。
ちなみに管見の限り吉行を遭難当時の佩刀する説は大正五年(1916年)坂本龍馬中岡慎太郎五十年祭における岩崎鏡川の講演が初出で、同時代史料からの確認はとれない。それゆえ誤説を疑って疑えないこともないのだが、坂本弥太郎が明治四三年(1910年)に記した遺品預かり書の控えには吉行が遭難時の佩刀であることと刀傷の鞘が付属するむね注記されており、遭難時に龍馬が吉行を佩刀していなかったとする見方は坂本家の家伝自体が間違いだと証明できない限り成りたちにくい。
この点かつて坂本家に龍馬の遺品として伝わっていた「北辰一刀流長刀兵法目録」[08] や備前長船勝光同宗光の脇差 [09] がいつの間にか他に流出していた例を鑑みると、吉行もまた坂本弥太郎の預かり知らないところで流出して(正確には別の吉行と入れ替わって)しまったのではないかと私的には憶測を勝手にたくましくする。なお坂本弥太郎は土佐勤王党の島村衛吉が佩刀であった埋忠明寿 [17] の刀を龍馬の遺品として扱っていた節が昭和四年(1929年)土佐勤王志士遺墨展覧会の目録からうかがえるので、坂本家では遺品の取り扱いに一時期(釧路大火のせいで?)混乱があったのかもしれない。
国家難にのぞむの際には必、家宝の甲を分ち、又は宝刀をわかちなど致し候事。何卒御ぼしめしに相叶候品、何なり共被遣候という龍馬からの家宝拝領願いに応えるような形で坂本権平が贈った [10] 郷土刀。慶応三年六月二四日付龍馬書簡には
先頃西郷より御送被遣候吉行の刀、此頃出京にも常帯仕候とあり、小美濃清明氏は「愛刀吉行」で慶応三年二月中に坂本権平から西郷吉之助、翌月中に西郷吉之助から中岡慎太郎、同月中に中岡慎太郎から龍馬にという受け渡しルートを各人の動向から想定しておられる。龍馬自身
私しも兄の賜なりとてホコリ候刀で、遭難時に佩用していたのもこの吉行であったようだ。
坂本龍馬関係文書(2)日本史籍協会叢書 | 日本史籍協会 | 東京大学出版会 |
坂本龍馬とその一族 | 土居晴夫 | 新人物往来社 |
龍馬暗殺の真犯人は誰か | 木村幸比古 | 新人物往来社 |
坂本龍馬と刀剣 | 小美濃清明 | 新人物往来社 |
定本坂本龍馬伝 青い航跡 | 松岡司 | 新人物往来社 |
日本刀辞典 | 得能一男 | 光芸出版刊 |
高知県人名事典 新版 | 『高知県人名事典新版』刊行委員会 | 高知新聞社 |
坂本龍馬全集 増補四訂版 | 宮地佐一郎 | 光風社出版 |
雋傑坂本龍馬 | 坂本中岡銅像建設会 | 象山社 |
坂本家系考 | 土居晴夫 | 土佐史談会 |
日本刀工辞典 | 藤代義雄 | 藤代商店 |
土佐遺聞録 | 寺石正路 | 開成舎 |
坂本中岡両先生五十年祭記念講演集 | 坂本中岡両先生遭難五十年記念祭典会 | 坂本中岡両先生遭難五十年記念祭典会 |
土佐勤王志士遺墨集 | 青山会館 | 名著出版 |
龍馬の翔けた時代 その生涯と激動の幕末 | 京都国立博物館 | |
龍馬の脇差しが高知に到着 高知県立記念館で来月から展示へ | 高知新聞 | |
北海道へ渡った坂本龍馬の日本刀 | 宮川禎一 | 北海道坂本龍馬記念館 |
(平成二七年一一月一五日識/平成二七年一二月二日追記)