space_space.gif
 龍馬堂>>考龍馬伝>>慶応年間>>直陰と直柔 
space_space.gif
坂本龍馬の目録

慶応年間

LinkMark直陰と直柔

LinkMark吉行の刀

LinkMark大政奉還運動開始

LinkMark梅毒のため?

考龍馬伝

LinkMark雑考

LinkMark天保六年〜安政五年

LinkMark安政五年〜文久二年

LinkMark文久二年〜元治元年

LinkMark慶応年間

坂本龍馬

LinkMark龍馬概略

LinkMark龍馬日譜

LinkMark龍馬詩評

LinkMark考龍馬伝

LinkMarkえにし

LinkMark関連本など New

space_space.gif

直陰と直柔〜神代紀と易経の影響〜


 直本・直益・直躬・直海・直清・直澄・直足・直方・直陰・直柔……。
 まず郷士坂本家における「直」字名をうえに羅列してみたが、このように系譜上代々うけつがれ使用される文字を一般には「通り字」などと称する。坂本家では直がこの通り字にあたり、藩主山内家の当主は一部に例外こそあるものの「豊」が、半平太の武市家は本人が「小楯」へと改名する以前「正」が通り字にあたっていた。

 龍馬の場合、ふだん他人から呼ばれる通称が「龍馬」、実名が当初「直陰」。史料のうえでは慶応二年(1866年)およびその前後一ヶ月をさかいにこれを「直柔」へと改めている。

 この改名について小美濃清明氏は『坂本龍馬・青春時代』において

 お登勢[寺田屋登勢]には自分の家で龍馬に負傷させてしまったという自責の念[慶応二年の寺田屋遭難のこと]があったと思われる。二度とこのような事が起こらぬようにと、お登勢は祈ったのではないだろうか。
 法華宗の信者であったお登勢は『法華経』の力を信じている。「自我偈」の中の<質直意柔軟><柔和質直者>から<直柔>という諱を思いつき、龍馬に諱を改めるよう勧めたのではないだろうか。
と見解を記しており、松岡司氏は、

●『坂本龍馬伝 青い航跡

 諱[ここでは直陰・直柔]とは呼び名である通称とはちがう本名のことで、墓石にきざまれることから忌み嫌って諱[いみな]と言われだしたという。だからよけいに直陰を嫌ったかもしれない。よみは「なおかげ」に「なおなり」か。「柔」は陰の意もありながら、本来は曲直のしなやかさにつうずるものとして「直」とつながり、また郷士坂本氏初代の初名順信の「順」と同義でもある。

●『異聞・珍聞 龍馬伝

 直益のはじめの実名が順信。お坊さんの名みたいですが、たとえばこれは「なおみち」といったように、上を「なお」と読んだはずです。易学にもとづく名[『卑家月書 内之部第一』享保七年六月予ガ実名順信と称す。易に曰く、子曰く天之助くる所者順也。人之助くる所者信也。信を履み順乎思うは又以て賢尚ぶ也、『易経』繋辞上伝子曰く、祐は助なり。天の助くる所の者は順なり。人の助くる所の者は信なり。信を履み順を思い、また以て賢きを尚ぶなり。是以て天よりこれを祐く、吉にして利ろしからざる无きなり。でした。
[中略]
 こうして龍馬も「直陰」。
 国学の伝統は同家に息づいていましたから、仮に『日本書紀纂疏』にとったとするなら、「陰」も何かある?
 ありますよ! いきなり日本の成り立ちを記したところがあって、そこに「陰陽二神、始め日神を生み、故に日本を以て名とす」とあります。易学的解釈をくわえて以下同書はひんぱんに「陰陽」がでてくる

と述べている。

 前者『法華経』出典論は斯く根拠づける説得の材にとぼしく、個人的にはやや得心がいかない。論の可否は各々は同書にあたられたうえで御判断いただきたいのだが、まず経文の字句ありきで論じられている観がつよく、お登勢が法華宗の信徒(ただしお登勢のねむっている松林院は浄土宗)だった以外、法華経・お登勢・龍馬をむすぶ傍証性にやや弱さを感じてしまうのである。

 一方、後者は先祖直益(直本の後名)の旧名「順信」のよみから、通り字の直へおよび、出典として一条兼良『日本書紀纂疏』を仮にあげて直陰・直柔へと論がおよぶ構成になっている。

 一族にながく使用されつづける通り字に、家で大事とする徳目や家風がうかがえるとみるのであれば、命名の担い手である家の思想を度外において論じるわけにいかないので、これはもって傾聴すべき意見だと思う。

 平尾道雄氏・土居晴夫氏らが直の出典について早く『卑家月書 内之部第一[享保十三年-1728年]六月上旬、順信改め而直本ト号す。神代纂疏[『日本書紀纂疏』神代紀注釈部分]に曰く縄は直之義。神道、直を以て本と為すをひき明示していたように、松岡氏もこれを基本祖述して龍馬の名に論をすすめ、既記の引用ののち「陰」を天道におけるもっとも大切な語とかいし、「柔」も『日本書紀纂疏』の一文天の道を立つるに、陰、陽とともにすと曰い、地の道を立つるに、柔、剛とともにすと曰う(ただし一条兼良は北宋期の襦学者周敦頤『太極図説』から同部分を引用したと思われる)から天道とならぶ地道のもっともたいせつな語と説いている。つまり直陰にも先祖のさい同様、家風とでもいうべき神儒一致の思想的背景(≒中〜近世における神道理解)が看取されるわけである。

 そこで素朴な疑問が一つわく。命名の由来に当時の神代紀理解があるにしても、なぜ他を排して撰りに撰られた文字がこの陰なのだろうか。陽が天となり陰が大地になったこと、陽神(イザナキノミコト)・陰神(イザナミノミコト)のはたらきによって国土が生成されたことなど、神代紀を参考にすれば自ずと重要性は察せられるものの、対となる概念「陽」(名乗りでの訓は、あき・あきら・おき・きよ・たか・なか・はる・や、などなど)を差しおく理由がわからない。

 もとより名付けには様々方法があり、いま思い起こせるままあげるだけでも、動植物など自然物の霊性にあやかった名付け、凶・邪を避けるためにわざと負のイメージをになう名付け、吉事・慶字をもってする名付け、人の生まれにもとづき配される五行(木・火・土・金・水)と相性のよい漢字をもってする名付け、干支にちなむ名付け、百官名・受領名などをかりる名付け、愛好物にちなむ名付け、史書や古典の一文を引用・拝借する名付け、輩行順序にもとづいた名付け、『韻鏡』反切帰字によった名付け、偏諱による名付け、など通称・雅号・実名などによってよるべき方法は違えどイチイチあげていてはきりがない。

陰陽・干支・八卦

 上掲のうち陰陽の概念に一番関係ありそうなものといえば、干支がなかばそれに近いだろうか。理由は単純に当時の通念である陰陽五行説に龍馬の生まれ天保六年の干支「乙未」をあてはめれば、陰にこれが配されるためだ。

 陰陽のべつは十干・十二支それぞれにみられ、十干は「甲」を起点に、十二支は「子」を起点に奇数番目を陽、偶数番目を陰に分配する。この発想は『易経』繋字伝陽卦は奇にして、陰卦は偶なればなりによるものとおぼしい。
 このように陰陽・五行・干支が直接むすびついてくるのは漢代のころとされており、陰陽五行説に干支をはいし名称をくわえた「納音」、易学の八卦に十干・五行を関連をづけた「納甲」、大成八卦の爻一つ一つに干支を割りあてた「納甲子」(八卦×六爻=四十八爻、くりあわせても干支数六十には満たない)、などなど陰陽に五行や干支その他を付会する例はおおい。

 なかでも『易経』ゆかりの八卦と関連づけた納甲(おなじ易学系の納甲子は数の都合からか日本で普及した印象はうすい)に乙未はいした場合どうなるかというと卦は「坤」にあたり、五行では「木の弟(木の陰)」にあてられる。坤は通称を坤為地といい、坤は地勢であり坤は陰物と『易経』では観念される。

 先祖の直益(=順信=直本)が『易経』と神代紀注釈を参酌して自己の名としたように、うえの推測から直陰をみれば既記の松岡説とあわせ、字義や付会するところもアラアラうかがえる気がしないでもない。

 くわえて神代紀に撰字の由来をもとめるなら『日本書紀』神代紀本書天先づ成りて地後に定るあたりに、その発想をみるべきだろうか。兄権平が成人してから生まれた龍馬のことだから、輩行順や干支の陰陽を付会させて私的には斯く考えてもみたいのである。
 ちなみに権平の干支は文化十一年うまれの「甲戌」。陰陽のべつはそれぞれが陽で、納甲は天の概念にあたる乾為天こと「乾」卦。五行では「木の兄(木の陽)」にあたっており、龍馬が陰・地・弟などとされる概念にもうまく符合していておもしろい。当時これらは庶民生活にまで入りこんでいた通念なだけに、あながち穿ちすぎでもないだろう。ただし結論のでる話しでもないので妥当性の判断は第三者にまかせる。

 (閑話一。『易経』繋辞伝によれば八卦はシナ神話における伝説上の王伏犧が河よりあらわれた図をみて発案したものとされており、漢代の襦学者孔安国のつたえる『尚書』注釈によると、伏犧が天下の王であったさい龍馬が河より出現し、その模様を参考に八卦をあらわしたされている。
 龍馬の通称と直陰の名に易学的照応がこの点みえなくもないが、神代紀理解とはやや距離のある話しなので、こちらはおそらくタマタマの所産だろう。むかし目についたことなのでとりあえず記す。)

『先哲像伝』山崎闇斎

 とまれ直益が師事した谷門系の学は山崎闇斎の学統「崎門学」のながれをくむ。この学派は儒教のことわりで神道を説くいわゆる襦家神道に大別され、崎門の神道は「山崎神道」、また闇斎の霊社号にちなみ「垂加神道」とも称される。
 垂加という号は『倭姫命世紀』にみえる神の垂は祈祷を以て先となし、冥はの加すは正直を以て本と為すを出典とし、直益がかつて直本へ改名するさいによった「直を以て本と為す」は、おなじくこの文言や三社託宣あたりを原典にしている。諺にいうところの「正直の頭に神宿る」も同想だろう。

 (閑話二。山崎闇斎の字「敬義」[もりよし]は『易経』坤卦文言伝敬を以て内を直くし、義を以て外を方にすに由来する。権平の名である「直方」の出典もここに同じなのだろうか。不明。)

 闇斎ははじめ僧侶から儒学者に転向した人で、儒教程朱学は当時宋代に成立後すでに数百年をへるにおよんでおり、日本に渡来した学説は要約・雑駁の観がつよかった。そこで闇斎は同学の大成者である朱熹の主張するところとその変遷を詳らかにせんとして一家をなした儒学者としてしられている。
 学問的には吾れ朱子を信じて、亦述べて作らずという態度を基本保持し、対象としては朱熹の言説や関係のふかい先学たちの集成、近世道学の教科書ともいうべき四書、五経では『易経』に関する校注が比較的おおい。
 神道家としては程朱学のもつ性理学(人間が本来的にもっている性質や心の働きをある理りにもとづくものとして捉え考究する学問)的面をうけついで、人間の本性・原理にたいする感心がつよく、その神道観には元気論・五行論・陰陽論など儒学的諸要素が『垂加社語天神第一代は天地一気の神、二代より六代に至りてこれ水火木金土の神、第七代は則ち陰陽の神なりと通底している。
 尊王や愛国といった面では『先哲叢談』にみえる著名な対孔孟の説話(これは尊王・愛国という面で単純に解すべき挿話ではないのかも知れないが)や、神道上の極意に君臣の一致を説く姿勢からもその重要度はうかがえるだろう。

●『先哲叢談』山崎闇斎条

 嘗て羣弟子に問うて曰く、方今彼の邦、孔子を以て大将と為し、孟子を副将と為し騎数万を率ゐ、来りて我が邦を攻めば、則ち吾党孔孟の道を学ぶ者、之を如何と為すと。弟子咸答ふる能はず。曰く、小子為す所を知らず。願くは其説を聞かんと。曰く、不幸にして若し此の厄に逢はば、則ち吾党、身に堅を被り、手に鋭を執り、之れと一戦して孔孟を擒にし、以て国恩に報ぜん。此れ即ち孔孟の道なりと。

 ついで崎門と土佐藩の関係についてのべると、はじめ闇斎は京都にうまれ、のち野中兼山にまねかれ土佐へ来国。同地で谷時中につき土佐南学(土佐における程朱学)をまなび、野中兼山・小倉三省らとふかく交わるにおよんで僧侶からの還俗を期し帰京、山崎嘉右衛門柯(のち嘉)を名乗る。やがて儒学者として名望をえて、会津藩主保科正之に賓師として遇されるにいたり、その門に学ぶ者は六千人におよんだとも誇張され、著名な弟子には佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎らのいわゆる崎門三傑、神道における正親町公通・出雲路信直・渋皮春海、土佐出身の谷秦山らがいる。

 土佐における程朱学南学派は、有力者たる野中兼山失脚のため人材のおおくが藩外に四散し逼塞。しかし秦山の帰国後、彼を中心とする谷門与党らの活躍によって士庶や神祇関係者におおく扶植された。やがて崎門系谷門学は六代藩主豊隆との対立をへて、侍読に三宅尚斎をまねいた七代豊常期にいたり一応の安定を見、次代創設の藩校教授館は伊藤仁斎の古義学や荻生徂徠の古文辞学を邪説(山内豊敷「教授館掲文」)としてしりぞけ、崎門系の人々がおおくこれに登用された。これにより土佐における儒学は程朱学南学派崎門系によってその勢をしめらたことになる。

 谷門学は闇斎・浅見絅斎・渋川春海など崎門系の師について秦山が形成した学問で、その特色は神道を以て経とし儒を緯とす。専ら先師闇斎の衣鉢を伝ふ。而も闇斎没后、渋川春海・度会延佳等に親灸し頻りに口伝を受け独立別に一機軸を為す(寺石正路『土佐人物伝』)ものとされ、渋川春海からは神道のほか天文暦学もまなんでいる。
 その日本重視の学問的態度は秦山自身「神道・歌学・有識の三者、学ばずんば則ち皇朝の人に非るなり」(谷真潮『北渓集』)と語り、子の垣守や孫の真潮は賀茂真淵について実証的な国学をまなんでいるなど、南学がほんらい儒教の一流であったことを思うと、ここに一つの特徴をみる思いがする。

 そんな谷門の一人である直益は、はじめ秦山の高弟で八哲の一人にもかぞえられる斎藤実純に師事し、のち垣守にも師礼をとった。神道的影響は坂本家の通り字にも反映され、同家の家風にも影響をあたえたであろうことは述べたとおり。また龍馬誕生時在命の祖母久は井上氏の出身、同家の曾祖父(久からみれば父)真蔵も谷門からでた学者・歌人としてしられている。ここにも坂本家の学統的こさが察せられよう。

 ただ龍馬の父八平(龍馬出生時の通称は長兵衛)直足は山本家から坂本家にはいった養子なので、この点無批判に家風や影響を云々するわけにもいかないのだが、土佐や坂本家の環境が環境であろうし、八平自身にも国学に関するたしなみあったことは残された和歌・鹿持雅澄に師事したというつたえ・川島猪三郎宛書簡などからも知られ、実家山本家とゆかりの宮地氏(山本家とは相互養子の仲)が神道にあつかったこと、成り行きとはいえ後年山本家出身の沢辺琢磨が一時期出奔先で神官をつとめていたことなど、個人・実家双方においても素養的には問題もなさそうである。

直陰・直柔 署名

 とかく多分に家風の影響が色こい直陰という名前。龍馬は伏見で居た時分に、直陰は何時迄も日陰者の様でイケないから、直柔に換へる(『千里駒後日譚』)と陰を柔にあらためた。
 この何時迄も日陰者という言いまわしに、どこか弟・厄介者という自意識がほのみえなくもないが(それとも幕府から手配されている身の上をさして日陰者というのだろうか?)、厭った理由は同音類想。和歌をたしなむ龍馬らしいといえなくもない。

 慶応二年に伏見で改名したとなると、薩長同盟成立・寺田屋遭難・ケガの療養・お龍との結婚(おおやけの意味で)などなど、龍馬自身いろいろと心境に区切りをつけるのにいい時分だけに、それが基本作用したものと思われる。所帯持ちなら日陰者でもないだろう。
 ただ易学上の概念的つながりを重視して斯く変更したものとみえる撰字には(『易経』繋辞下伝陰陽徳を合わせて剛柔体あり、もって天地の撰を体し、もって神明の徳に通ず、朱熹『周易本義』にも陰柔という語が頻繁にもちいられる)、龍馬の命名者にたいする心遣いが見えるようでほほえましい。占い(『易経』は占筮の書)・迷信には淡白そうな龍馬なのに。

●川田雪山『千里駒後日譚

 北海道へ行く固めの盃にと、一晩、酒を呑みましたが、誰れが言出したか、一ツ祇園を素見さうろ、大利[鼎吉]さんは殿様に化けて籠にのり、白峰[駿馬]さんがお小姓役、龍馬は八卦見、ソレから私[お龍]が御腰元で、祇園の茶屋へ押し掛け、コレは殿様だから大事にしてくださいと云ふと、女中も三助もお内儀さんも、皆んな出て来て、ヘイヘイとお辞儀をする、阪本は八卦見[実際の八卦見ではなくあくまでも代名詞的用法]だから、手を出せ筋を見てやると云ふと、私にも私にもと皆な手の掌を出すのを、何だとか彼だとか、あてすつぽふに云つて居りましたが、能く当る能く当ると喜んで居りました。

space_space.gif

主要参考資料
国学に関する谷秦山・垣守の事跡吉野忠『高知大学学術研究報告 人文科学編』1964.03.30
日本書紀(一)岩波文庫坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋岩波書店
易経(上)岩波文庫高田眞治・後藤基巳岩波書店
易経(下)岩波文庫高田眞治・後藤基巳岩波書店
古事記と日本書紀 講談社現代新書神野志隆光講談社
坂本龍馬 隠された肖像山田一郎新潮社
坂本龍馬とその一族土居晴夫新人物往来社
坂本龍馬・青春時代小美濃清明新人物往来社
定本坂本龍馬伝 青い航跡松岡司新人物往来社
異聞・珍聞 龍馬伝松岡司新人物往来社
土佐藩平尾道雄吉川弘文館
坂本龍馬全集 増補四訂版宮地佐一郎光風社出版
日本思想大系(31)山崎闇斎学派 岩波書店
日本思想大系(39)近世神道論・前期国学 岩波書店
先哲像伝原徳斎裳華書房
先哲叢談塚本哲三有朋堂書店
土佐人物伝寺石正路開成社

(平成二一年一一月二八日識)

mark_utarntop.png PageTop 

space_space.gif
space_space.gif
 龍馬堂>>考龍馬伝>>慶応年間>>直陰と直道 
space_space.gif