曲がりなりにも坂本龍馬サイトを斯く運営していると、時おり質問など舞いこんでくることがあり、先日も「坂本龍馬は梅毒 [1] だったと聞いたのですが、本当ですか?」といった趣旨の質問をメールにてもらった。
御本人にはすでに解答済みなので問題は事済み、メールが来たこと自体ここでふれるべき要もないのだが、以前わたしも龍馬の梅毒説についてあれこれ調べてみたことがあったのをこのさい思い出し、こちらのコンテンツにまとめ直してみることにした。さっそく以下から本題にはいる。
まず龍馬が梅毒をわずらっていたとされる説は
●幸徳秋水『兆民先生』
豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ。予は当時[幕末期]少年なりしも、彼[龍馬]を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざる予[中江兆民]も、彼が純然たる土佐訛りの方言をもて「中江のニイさん、煙草を買ふてオーセ」などと命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屢々なりき。彼の目は細くして其の額は梅毒の為め抜上居たりき
という中江篤介こと号して兆民の証言に胚胎する。人物評をはじめとして龍馬にたいする印象や観察は、結構な数が現代につたわっているものの、梅毒をわずらっていたとする証言は兆民のこれが唯一無二である。
菊地明氏は『追跡!坂本龍馬』において、手近にあったという『日本大百科全書』の梅毒条をひき、梅毒に脱毛症があることを確認しつつ、龍馬の写真二種を見くらべ、頭髪の後退を根拠に梅毒説を肯定 [2] する。
しかし兆民の其の額は梅毒の為め抜上居たりき
という臨床(見立て)だけで、梅毒説の当否を論じるのには、いささか強引の観がある。
ここで先に梅毒の脱毛症状について確認しておく必要があるが、私は医者ではないので当然専門的なことはわからない。以下に各種書籍やウェブサイトから梅毒性の脱毛症について引用し、参考にさせていただこう。
●荻野篤彦「医学的見地からの日本の梅毒今昔」から(『日本梅毒史の研究』)
脱毛症(梅毒性脱毛) 感染後六ヶ月から一年頃にび慢[瀰漫・弥漫、一面に広がること]性に多量に脱毛するか、あるいは後頭部から側頭部にかけて毛の抜け方が不揃いな脱毛班[小単位の脱毛、円形脱毛症など]が多発する。ときに眉毛、腋毛、陰毛も脱毛することがある。
●「梅毒」から(『最新家庭医学大百科』)
頭髪は全体に抜けやすくなる場合と、虫食い状の脱毛班後頭部にできる場合がある。これらの脱毛もやがてもとに戻る。
●「第二期梅毒」から(ウェブサイト「病気と症状 病気を知る」)
梅毒性脱毛症は、第二期にみられる発疹です。顕症梅毒[症状の顕われている梅毒]では、梅毒性乾癬[角質細胞が剥落をともなう発疹]とともに、これが重要な症状となっています。全体にまばらに脱毛するびまん型と、側頭部から頭頂部にかけて、つめぐらいの大きさの脱毛部が多数できる小斑状型とがあります。
●「梅毒性脱毛症」から(ウェブサイト「円形脱毛症女性の抜け毛悩み解決」)
梅毒性脱毛症は、梅毒に感染した第2期(5ヶ月くらい)の患者に起こり直径3ミリから5ミリの円形脱毛症が髪のサイドにできます。虫喰い状に多数できるのが特徴でサイドがびまん性に脱毛する場合もあります。
第2期梅毒の症状として、眉毛、顎髭、毛髪に脱毛が見られ、特に頭部に生じる脱毛範囲は不規則的で、まるで虫に食われた葉のように見える。
●「性感染症」から(ウェブサイト「大阪府立急性期・総合医療センター」)
梅毒性脱毛:びまん性と小斑状脱毛がある。小斑状脱毛は、爪甲大から貨幣大の円形、類円形の不完全な脱毛で、虫食い状の脱毛と例えられるように、頭髪がまばらな印象を受ける。
勝手な解釈にならないよう症状の重複をいとわず様々にひいてみたが、梅毒性の脱毛症とは上掲からつまるところ、側頭部ないし後頭部の小班状脱毛と瀰漫性脱毛 [3]、ということになるだろう。兆民がつたえる臨床とは結局症状がことなっており、言いまわしの違いだと解釈するにも表現には距離がある。
おなじ幕末期の疾病として馴染みぶかいコレラや麻疹などの急性疾患とちがい、梅毒のような慢性疾患ともなると、他病との合併症や慢性皮膚病などと見立てちがいをおこしやすく、生化学検査(血液検査)のない江戸時代だけに判別も容易・的確とはいきがたい。
近世、梅毒はたいへんありふれた病気で、当時の診断技術では多分に誤診を含みそうなものの、杉田玄白は『形影夜話』に毎年千人余りも療治するうちに七、八百は梅毒家なり
と医者としての体験をつたえ、幕末維新期の医師松本良順も下賎のもの百人中九十五人は梅毒にかからざるものなし
(『養生法』)という。戊辰戦争のさい、官軍の横浜大病院に出仕し治療にあたっていた英国人のウィリアム=ウィリスは、三〇人から四〇人もの梅毒患者が傷病兵のなかにいたことをつたえ、明治はじめ特定疾患用に設けられた病院では、梅毒対応のものが数でダントツにおおい [4]。
鈴木隆雄氏は自著『骨から見た日本人』で古病理学 [5] のデータをもちい、いくつかの変数(パラメータ)を変化させることによってその値は一六・五%〜七二・六%と大きく変動
するむねを一往ことわりつつ、江戸時代人の梅毒頻度を五四・五%と
推計する。これは数人に一人レベルのなかば国民病といっても過言ではないだろう。
これだけ社会に蔓延し慢性化していた疾病にもなると、経験知から多様な一般常識が真偽ないまぜのまま当然形成されていたものと思われるが [6] 、兆民の見立ても細かい症状まで把握していない、梅毒には脱毛症状があるくらいの認識からでた誤りとみたい。
兆民が龍馬と知り合ったとおぼしい慶応三年(1867年) [7] は結果的に龍馬の最晩年にあたり、当時の龍馬評としては
●『千里駒後日譚』から
長州の伊藤助太夫の家内が阪本さんは、平生きたない風をして居った顔付も恐ろしい様な人だったが、此の間は、顔も綺麗に肥え、大変、立派になって入らっしゃった。吃度、死花が咲いたのでせう、間もなく没くなられたと云ひました。
●『随聞随録』から
才谷は色黒満面よしあざ [8] あり。惣髪にて羽二重紋付羽織袴(白き様なる縞の小倉袴)、梨地大小、髪うすく柔和の姿なり。
などが容姿にも言及があり参考になる。
伊藤家の家内がいう顔付も恐ろしい様
だったとは、龍馬が下関の本陣伊藤家に長期滞在していた慶応三年二〜三月ごろの印象 [9] と思われ、龍馬が病気療養中だったことの影響だろう。
(菊地氏の『追跡!坂本龍馬』はこの療養期を梅毒第二期における免疫力低下 [10] にもとづく体調不良のためとみており、梅毒説を肯定する補足としているのだが、兆民の見立てが梅毒性脱毛と症状が一致しないのは既記のとおり。体調不良はそれこそ梅毒に限る話しではないので、この補足は結論ありきの逆説にみえる)
また此間
とは、後文の間もなく没くなられた
という点から推して、伊藤家にお龍をたずねた八月中旬ごろのものだろうし、『随聞随録』のほうは九月下旬の土佐帰郷時の観察による。受けた印象はおそらく、さきに掲げた慶応三年晩夏から初冬ごろまでに撮影されたとおぼしい龍馬写真のものとおおかた同じものだろう。この写真からは壮年性脱毛ならまだしも、瀰漫性脱毛をていしているようには見えないし、惣髪
に結える髪も存在することから、後頭部ないし側頭部に班状脱毛があったわけでもなさそうだ。
最後にこれは勝手な推測だが、兆民は龍馬の顔にあるアザ・シミ・ホクロ・ソバカスの類いを梅毒疹の一種とみて、頭髪も梅毒のため後退したものと観ていたのではないだろうか。龍馬の顔に特徴的なアザがあったことは、アダ名の「アザ」 [11] や満面よしあざあり
(『随聞随録』)、また眉の上には大きな痣[いぼ]が有って、その外にも黒子[ほくろ]がポツポツあ
(『千里駒後日譚』)ったなど、ほかにも多くの証言から確認ができる。
兆民の評にアザやホクロについて言及がなく、一足に梅毒とだけ述べているあたり、あながち考えられないこともないと思うのだが、これは所詮些事である。
代表的な性病。病原体はトレポネマ‐パリズムで、主に性行為により感染し、母親から胎児に感染することもある。約3週間の潜伏期を経て発病し、陰部にしこり・潰瘍(かいよう)ができる(第1期)。3か月ほどたつと全身の皮膚に紅斑や膿疱(のうほう)が出たり消えたりし(第2期)、3年目ごろになると臓器・筋肉・骨などに結節やゴム腫を生じ、崩れて瘢痕(はんこん)となる(第3期)。10年目ごろには脳などの神経系や心臓・血管系も冒され、進行麻痺や脊髄癆(せきずいろう)がみられる(第4期)(『デジタル大辞泉』)。さらに補足すれば、症状が一々目に見える形であらわれないことも多く、死後の解剖や検査で漸くそれと知れることも珍しくない。くわえて自然に治癒する例も多いので、この説明や年次経過はスタンダードなあくまでも一例である。
そのほか、[梅毒第二期には]梅毒性脱毛症や皮膚の色素が増減する色素性梅毒および梅毒性白班があるとみえるだけで、それ以上梅毒性脱毛にはふれていない(ただし2001年度版では言及があるのかも知れず、その点は当方未確認)。
日本でタバコが広まったのは、「そのころコセ瘡という病気が流行し、漢方でも施す術がなかった。ところがタバコを喫む人にはこの煩いがないといわれたので、人々が盛んにタバコを喫むようになった」(『翁草』)といい、このコセ瘡は、ポルトガル人によって伝えられた梅毒であったといわれるとの一文があり、幕末期にもこの俗信が生きていて、なおかつ兆民がこのことを知っていたのであれば、タバコを買いに行かされたこととの関連で、勝手に龍馬を梅毒と推測したのかも知れない。
よしあざとは「よみあざ」の誤記で、高知の方言ではソバカスの意味という。
病気ニて引籠っているむねの伝言がある。
お龍と共に一カ所にこれだけ居続けたのは龍馬の生涯では珍しい記録になる(『検証・龍馬伝説』)ので、滞在期間が長いこともあって、このときの印象ではなかろうかと私的には推測する。滞在中お龍と歌会に出席したり、巌流島にわたって花火を打ち上げたりしていることから推して、滞在が長引いた背景には体調不良だけでなく、暫く構ってやれなかったお龍にたいする気配りも幾分かあったかも解らない。
[梅毒第二期の]膿疱性梅毒疹は全身状態が不良で抵抗力が抵抗した場合に出やすい(『日本大百科全書』)、
前駆症状ならびに全身症状として発熱、頭痛(夜痛)、骨痛などを訴えることがある(『日本梅毒史の研究』)など。
一日、門田[為之助]、大石[弥太郎]に語りて曰く『近頃痣は読書を始めたり』と。痣とは龍馬の異名なり(千頭清臣『坂本龍馬』)など。
兆民先生・兆民先生行状記 岩波文庫 | 幸徳秋水 | 岩波書店 |
骨から見た日本人 講談社選書メチエ | 鈴木隆雄 | 講談社 |
最新家庭医学大百科 | 主婦の友社(編) | 主婦の友社 |
日本大百科全書(18) | 小学館 | |
江戸の性病 梅毒流行事情 | 苅谷春郎 | 三一書房 |
追跡!坂本龍馬 | 菊地明 | PHP研究所 |
病気日本史 | 中島陽一郎 | 雄山閣 |
日本医療史 | 新村拓(編) | 吉川弘文館 |
日本梅毒史の研究 | 福田真人・鈴木則子 | 思文閣出版 |
検証・龍馬伝説 | 松浦玲 | 論創社 |
龍馬・お龍・土佐 土佐語り部の秘録 | 岩崎義郎 | リーブル出版 |
坂本龍馬全集 増補四訂版 | 宮地佐一郎 | 光風社出版 |
日本人の病歴 中公新書 | 立川昭二 | 中央公論社 |
新編現代家庭医学百科 | 主婦の友社(編) | 主婦の友社 |
養生法 | 松本良順(著)・山内豊城(補注) | 英蘭堂 |
(平成二三年一月一〇日識)