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菅江真澄翁墓


秋田史跡 H22.09.26(〇二一)

菅江真澄翁墓
撮影地:秋田県秋田市寺内大小路


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 紀行家・国学者・民俗学者・博物学者など、後世の分類でもってどうカテゴライズすべきか分かりづらい、「遊歴文人」こと菅江真澄の墓。

 全国的にも名の知られる著名人のはずだが、近世の紀行文や民俗誌の類に興味のない人であれば知らなくても無理はないので、ここでは若干の説明をしておく。

 菅江真澄は旧姓を白井、通称を幾代治と称し、名は英二・知之・秀超・秀雄などを名乗った。「真澄」の称をつかいはじめたのは史料上、文化四年(1807年)からのことで、名字を「菅江」と改めるのは文化七年の著作『比遠能牟良君(ひおのむらぎみ)』からのこと。出生は墓碑にきざまれた卒年七十六七から逆算して宝暦三〜四年(1753〜1754年)とされており、出身は三河国岡崎説・同豊橋説など諸説がある。

 学問形成期の十代以降には尾張国に出、書・本草・医学などを学ぶ一方和歌をよくした。内山真竜や栗田土満といった著名な国学者をたずねては研鑽にはげみ、三河国豊橋の国学者植田義方を直接の師まなびのおやと称している。

 天明三年(1783年)、三河国をあとにして信濃国へ出発。のち故郷に帰ったという記録はなく、東北・蝦夷地など生涯他郷にてすごし、多くの著作物(日記約五〇冊・地誌約六〇冊・随筆約五〇冊・雑葉集約六〇冊など)をのこした。現代において民俗史料としてそれら史料が貴重なのは、ことさら強調するまでもないだろう。

 享和元年(1801年)冬、津軽から秋田へとうつり、死去するまでの残り約二八年間を秋田各地にてすごす。

 秋田では藩校助教兼幹事の那珂道博と知りあい、その縁が発展して藩主佐竹義和の知遇を得た。これにより正式な形ではないものの、藩の依頼によって地誌の編纂にも従事し、藩に献納した著作が『真澄遊覧記』として現代につたわっている。また秋田の知己へ形見分けされた著作も多く、「秋田での出会いが史料の散逸を防いだ」として評価されたりする声があるのは、秋田県人としてもちょっぴりだけ嬉しいところではある。

 真澄が亡くなったのは仙北郡の地誌『月の出羽路 仙北郡』編纂中の文政一二年(1829年)七月一九日のことで、終焉地は角館神明宮神官某の宅とも、梅沢村(現在の仙北市田沢湖梅沢)とも伝えられ、駕篭にて運ばれたという遺体は、知人である古四王神社摂社神官の鎌田正家によって写真の当地、鎌田家の墓所ちかく葬られ眠っている。

 「我が家先祖の実家とも所縁ある人(ただし「面識がある」程度)だけに、いつかもっと本腰入れて調べたい人ではあるよなぁ」と手を合わせた。

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(平成二二年一二月一九日識)

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