史跡廻国記
秋田史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
撮影地:秋田市中通四丁目
いまは街中のちいさな公園になっている平田篤胤出生地跡。
写真の中央あたりで木の陰に入りつつ、こちらに背むけている石碑には平田篤胤先生誕生之地
という文字がきざまれ、公園の西端では嗚呼勤王平田先生誕生之地
と両面にきざまれた同趣旨の碑がたっている。
前者は陸軍中将本荘繁三郎が建てたものらしく、後者は明治三一年(1898年)以降、第一七連隊の衛戍地になっていた当地に、七代目連隊長だった高草木重列という人物が建てたものという。
篤胤は安永五年(1776年)八月二四日、大和田家の四男として写真の地にうまれた。「羽州久保田大絵図」によると、門は西むきだったかとおぼしく、うえの構図では家の腹あたりをちょうど撮影した感じになるのだろうか。
養子平田銕胤の記すところによると、久保田城下で幼少期をすごした篤胤は、崎門系の中山菁莪について漢学、叔父の柳元について医学を学んだとされる一方、篤胤より鉄胤にあてたかとみられる書簡の断簡によれば、里子にやられ、貧乏御足軽の家にて苦々しく六歳まで養ハレ
たのち乳母ノ夫が死テ家に帰されて父母兄弟に呵責せられたる
日々をすごし、やがて大金持ちの御はり医の所にモラハレテ居タ
が養家ニ実子が出来シ故ニ帰サレ
、以降じつの親兄弟から顔ニアザノアルガ、兄弟ヲコロシテ家ヲウバウ相ナリ
と虐待・家事に使役される毎日をおくったという。
この話し、篤胤本人のみ伝えるところだけに(『平田篤胤自聞受書』という史料にも家族から虐待されていた話しがみえている)、どこまで本当かはわからないが、数え年で二〇歳になった寛政七年(1795年)正月八日常ニ大キニ憤激シ玉フコト有ルニ依テ、俄ニ志ヲ起シ
、正月八日ニ家ヲ出タル者ハ再ビ帰ラズ
(『大壑君御一代略記』)という諺にしたがって、真冬ながらに国ぬけをとげる。
「無計画すぎて自棄・自殺にもちかいな」と、秋田っぽさから思わないこともない。
(平成二三年六月一一日識)