space_space.gif
 龍馬堂>>史跡廻国記>>秋田史跡記(一)>>秋田史跡 H22.09.26(三)>>平田篤胤大人終焉之地 
space_space.gif

秋田史跡記(一)

秋田史跡 H22.09.26

LinkMark其之一

LinkMark其之二

LinkMark其之三

史跡廻国記

LinkMark秋田史跡記(一)

LinkMark福井史跡記(一)

LinkMark三重史跡記(一)

LinkMark京都史跡記(一)

LinkMark京都史跡記(二)

LinkMark京都史跡記(三)

LinkMark大阪史跡記(一)

LinkMark兵庫史跡記(一)

LinkMark山口史跡記(一)

LinkMark高知史跡記(一)

LinkMark鹿児島史跡記(一)

私事

LinkMark自己紹介

LinkMark史跡廻国記

LinkMark古典覚書

space_space.gif

平田篤胤大人終焉之地


秋田史跡 H22.09.26(〇三五)

平田篤胤大人終焉之地
撮影地:秋田市‎南通亀の町

 ここもさきの荒川秀種邸跡と同様、道路の開通にともない史跡名目といまとでは、だいぶ空間のおもむきが異なっている場所。

 平田篤胤は天保一四年(1843年)七月初頭、胃腸虚弱により体調をくずし、閏九月一一日くだん同地にて没した。現在の秋田駅から北東にみえる手形山の正洞院へ、藩法のゆるすかぎり神式(許されない場合は仏式)にて葬られ、遺骸は生涯でもっとも畏敬した師本居宣長(篤胤は宣長没後の門人ということになっている)のねむる伊勢国へむくよう、西南にむけて埋葬された。

 秋田に篤胤が江戸より下ってきたのは、死の約二年五ヶ月まえになる天保一二年(1841年)四月下旬。このあいだ秋田でその門に学んだものは七〇人前後とされており、ものの本では「平田篤胤の影響をうけて尊王思想のつよかった秋田藩は、東北で数少ない新政府勢力として戊辰戦争をたたかった」とよく説明されたりもする。

 この点、幕末期秋田藩の行動をみるかぎり、単純にそうと肯定は(とくに藩首脳部について)できないのだが、篤胤の学統ないし彼に感化された人々のなかに、新政府と同調・協調する人々がおおかったのは、その学問・思想性からみて自然にして事実。

 くわえて慶応四年(1867年)、新政府軍の劣勢にともない北行してきた沢為量一行が、能代の地で歓待にちかいあつかいを住民から受けているあたり、尊王の念に秋田藩全体があつかったのかはともかくとして、相対好意的ではあったのかもしれない。

 ただし大半の青人草は戦争にでもまきこれないかぎり、「俺には関係ない」とばかり思っていそうではある。

space_space.gif

space_space.gif

(平成二三年六月一一日識)

mark_utarntop.png PageTop 

space_space.gif
space_space.gif
 龍馬堂>>史跡廻国記>>秋田史跡記(一)>>秋田史跡 H22.09.26(三)>>平田篤胤大人終焉之地 
space_space.gif