史跡廻国記
秋田史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
撮影地:秋田市南通亀の町
ここもさきの荒川秀種邸跡と同様、道路の開通にともない史跡名目といまとでは、だいぶ空間のおもむきが異なっている場所。
平田篤胤は天保一四年(1843年)七月初頭、胃腸虚弱により体調をくずし、閏九月一一日くだん同地にて没した。現在の秋田駅から北東にみえる手形山の正洞院へ、藩法のゆるすかぎり神式(許されない場合は仏式)にて葬られ、遺骸は生涯でもっとも畏敬した師本居宣長(篤胤は宣長没後の門人ということになっている)のねむる伊勢国へむくよう、西南にむけて埋葬された。
秋田に篤胤が江戸より下ってきたのは、死の約二年五ヶ月まえになる天保一二年(1841年)四月下旬。このあいだ秋田でその門に学んだものは七〇人前後とされており、ものの本では「平田篤胤の影響をうけて尊王思想のつよかった秋田藩は、東北で数少ない新政府勢力として戊辰戦争をたたかった」とよく説明されたりもする。
この点、幕末期秋田藩の行動をみるかぎり、単純にそうと肯定は(とくに藩首脳部について)できないのだが、篤胤の学統ないし彼に感化された人々のなかに、新政府と同調・協調する人々がおおかったのは、その学問・思想性からみて自然にして事実。
くわえて慶応四年(1867年)、新政府軍の劣勢にともない北行してきた沢為量一行が、能代の地で歓待にちかいあつかいを住民から受けているあたり、尊王の念に秋田藩全体があつかったのかはともかくとして、相対好意的ではあったのかもしれない。
ただし大半の青人草は戦争にでもまきこれないかぎり、「俺には関係ない」とばかり思っていそうではある。
(平成二三年六月一一日識)