史跡廻国記
秋田史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
撮影地:秋田市南通亀の町
写真は昭和一二年(1937年)に開通した道路のおかげで、いまではすっかり跡地が分断されてしまっている荒川秀種邸の跡。
明治初期の地図によると荒川久太郎
および病院
との文字が、だいたい写真と同位置に(前者は逆さ、後者は横になって)みえており、時のながれを嫌がうえにも感じさせる。
同所にすんでいた荒川秀種は通称を久太郎といい、文政一〇年(1827年)久保田城下にうまれた。身分は「廻座」という、ときよっては家老にまで就ける上級の家格。歴代に多数の家老を輩出した渋江家とは親戚筋の家柄である。
青年期には吉川忠行や平田篤胤について国学をまなび、あわせて西洋兵学をおさめ、藩砲術所では師範役をつとめた。戊辰戦争では藩の精鋭遊撃隊・有志隊をひきいて沢為量副総督のもと、いまの県南方面にたたかい、弱兵と評される秋田藩兵のなか、おおいに気を吐いて「鬼荒川」・「夜叉荒川」との武名をあげた。
(……とはいえ秋田在陣の官軍は戦争前半劣勢の状態がつづき、局所的な活躍ならともかく、戦術・戦略レベルではパッとした活躍がみえにくい)
維新後は藩の権少参事や常備大隊少佐をへて神道畑へとすすみ、土崎神明社・古四天王社・招魂社など、県内有力社で祠官として活躍した。ちなみに雅号を稜屋(みいつのや)といい、歌人としても一家をなしていたそうであるが、歌について私は未見。なにを見れば載ってるのだろう。
(平成二三年六月一一日識)