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秋田史跡記(一)

秋田史跡 H22.09.26

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荒川秀種邸跡


秋田史跡 H22.09.26(〇三四)

荒川秀種邸跡
撮影地:秋田市‎南通亀の町

 写真は昭和一二年(1937年)に開通した道路のおかげで、いまではすっかり跡地が分断されてしまっている荒川秀種邸の跡。

 明治初期の地図によると荒川久太郎および病院との文字が、だいたい写真と同位置に(前者は逆さ、後者は横になって)みえており、時のながれを嫌がうえにも感じさせる。

 同所にすんでいた荒川秀種は通称を久太郎といい、文政一〇年(1827年)久保田城下にうまれた。身分は「廻座」という、ときよっては家老にまで就ける上級の家格。歴代に多数の家老を輩出した渋江家とは親戚筋の家柄である。

 青年期には吉川忠行や平田篤胤について国学をまなび、あわせて西洋兵学をおさめ、藩砲術所では師範役をつとめた。戊辰戦争では藩の精鋭遊撃隊・有志隊をひきいて沢為量副総督のもと、いまの県南方面にたたかい、弱兵と評される秋田藩兵のなか、おおいに気を吐いて「鬼荒川」・「夜叉荒川」との武名をあげた。

(……とはいえ秋田在陣の官軍は戦争前半劣勢の状態がつづき、局所的な活躍ならともかく、戦術・戦略レベルではパッとした活躍がみえにくい)

 維新後は藩の権少参事や常備大隊少佐をへて神道畑へとすすみ、土崎神明社・古四天王社・招魂社など、県内有力社で祠官として活躍した。ちなみに雅号を稜屋(みいつのや)といい、歌人としても一家をなしていたそうであるが、歌について私は未見。なにを見れば載ってるのだろう。

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(平成二三年六月一一日識)

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