史跡廻国記
秋田史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
撮影地:秋田市大町六丁目
酒蔵新政酒造北側の公園にたつ感恩講発祥之地碑。「感恩講」と書いてよみは「かんのんこう」なので、その点は注意。
文政一二年(1829年)、那波三郎右衛門祐生・塩谷善兵衛といった町人有志らによって結成された窮民・孤児らの救済機関がこの感恩講。有志らの寄付・献金・知行収入もとに運営された今でいう非営利組織の慈善団体である。
秋田県にはいまでも感恩講と名づけられた同種の団体がいくつか現存し活動をしており、ここ久保田城下の感恩講はそのはしりとなったもので、一九一人の参加者・助成者をえて最初はじめられた。
元手としたあつめられた金二,〇〇〇両と銀一〇貫目を藩に献納することによって、講名を感恩講、知行二三〇石、佐竹家の別紋「源氏香(花散里)」をたまわり活動を開始。おもに困窮者にたいして米・衣類・薬代・葬式代など、諸品・諸費の給与をおこなった。おかげで久保田城下では天保の大飢饉においても餓死者が比較的少なくてすんだともいわれている。
ちなみに維新の秩禄処分後には、秩禄公債を資本に田地や他の公債をもとめて活動を継続。明治初年、勝海舟と面識をもった那波祐生は、彼から「淵黙勝多言」(えんもくたげんにまさる)との一詩をおくられているそうである(本文未見)。
この詩は『海舟座談』などにもみえている無声声却大 淵黙勝多言 雲霄一弧鶴 高舞向朝瞰
とおそらくおなじものだろう。
(平成二三年六月一一日識)