史跡廻国記
京都史跡記(三)
大阪史跡記(一)
兵庫史跡記(一)
撮影地:大阪府高槻市古曽部町3丁目あたり
伝能因法師墳墓こと通称「能因塚」。写真中央やや右側にみえる碑は、撰文を林羅山こと道春になり、高槻藩永井家初代直清の建立。
能因は俗名を橘永�、法名を融因のち能因。『和歌童蒙抄』・『五代集歌枕』などをあんだ藤原範兼選いわゆる「中古三十六歌仙」(『後六六撰』収載歌人)の一人。出家後は摂津国諸処に住し、古曽部入道・肥後進士などとも称された。
父を橘元�といい、のち兄にあたる為�(官職肥後守にいたる)の猶子になったともいう。また家集『能因法師集』詞書から逆算すると、うまれは永延二年(988年)のこととなる。
朝廷では大学に文章道をまなび、出家は二十六歳でのこと。出家については、その動機を恋人の死にもとめる説、身・官途の不遇にもとめる説などいくつかあるが、家集などを読むかぎり、個人的には後説および知人女性(恋人とは見ないでおく)の死が直接的な契機かと思う。
和歌における数寄ぶりはことに著名で、摂関家や親王家の歌合に出詠し(能因の生存が史料上より確認できるのは永承五年-1050年-祐子内親王家歌合まで)、後世の説話集にも歌にかかわる逸話が散見される。藤原清輔『袋草紙』によると、歌道においては藤原長能に師事し、これが歌における師伝の嚆矢ともいう(源順・源為憲などの先行例は、詩歌文章におよぶ師弟関係の例なので、ここでは別枠あつかいなのだろう)。
遁世の旅歌人としてのちに西行・芭蕉などに影響をあたえたことは有名だが、貴顕や国司層との贈答歌、馬の交易にかかわったかとされる詞書など、出家後も俗世間との交渉をたつことはなく、自適の日々をおくっていたことが知られる。
その間、生涯でモノした著作には家集『能因法師集』、和歌用材事典ともいうべき『能因歌枕』、能因在世中の歌人秀歌撰『玄玄集』、佚書に『八十島記』・『題抄』などがある。
当方私撰 能因印象歌:「あめにます とよをか姫に こととはむ いくよになりぬ 象潟の神」
(平成某年某月某日識)