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【「竜馬暗殺」——生と死の狭間で】(白子さん筆記)


 

生を意識する一瞬。それは死に近づいたとき、あるいは死に触れたときである。

「俺は死ぬかもしれない」。

こう思ったときこそが、人間にとって最も自分の生と向き合っている瞬間なのだ。

現代の日本では、そのような一瞬間にはなかなか出会えない。

平穏無事な日常の中にあっては、死と接する危険も少ないかわりに、生と向き合う瞬間もないのである。

そんな時代に生きている我々が、「生と死」を本当に理解することはできるのだろうか。

 

「竜馬暗殺」の時代背景は、秩序が保たれた平和な日本ではない。

混沌とした動乱の時代である。その動乱の日本を、生と死に真っ向から向き合い駈け抜けた男、坂本竜馬。

映画の中の竜馬は、我々が思い描くような「英雄」ではない。

野卑で貪欲、高邁な思想と大衆的な視野とを同時に同居させるアンバランスなパーソナリティ。

追い詰められながらも、生きようと足掻くその姿は、どこまでも人間的だ。

「はい、左様なら」と侍のように潔く死んでいったわけではない。

しかし、その死は少しも見苦しくない。

竜馬は、滅茶苦茶だろうが何だろうが、自分の生を全うした人間なのだ。

今日死ぬか、明日死ぬかというギリギリの中で選択する己の行動。

それがどんなに野蛮だろうとも、我々はそこに「格好よさ」を見出す。

スタイリッシュとは違った意味での格好よさ、である。

だから、彼の死も綺麗に見えるのだろう。

 

この映画は、決して坂本竜馬の伝記ではない。

死を通して見えてくる、竜馬という人間の生き様の描写なのである。

竜馬の「死」を描くことで、竜馬の「生」を浮き彫りにしているのだ。

 

竜馬とともに暗殺され、同じくその印象的な死を我々に見せるのが、竜馬の盟友、中岡慎太郎である。

人間の死にはドラマがある。

不謹慎だと言われようが、それが事実だ。

肉体の喪失だけでは、そこにドラマは生まれない。

精神(=パーソナリティ)の喪失があって初めて、我々は、その死にドラマを見出す。

この慎太郎という人物がいることにより、竜馬の死には更なるドラマが附加される。

言葉にすると安っぽくなるが、それは友情というドラマだ。

竜馬と慎太郎の友情のドラマは、彼らの死に最上の装飾を施している。

 

そう考えると、竜馬と慎太郎は幸せな最期を迎えたのではないだろうかと思ってしまう。

お互いの信頼を獲得し、二人で夢見る理想の未来。

それらが壊れて失望することのないまま死ねたのだ。

そのときの二人は無限だった。

夢でしかない理想世界が現実に存在していたのである。

何にも阻まれることなく、精神は自由に理想世界を浮遊していた。

女も革命も、何も関係なく、二人だけの認識で二人の精神は交わった。

そして、至高の瞬間にやってくる死。

そのままブラックアウト。

もちろん無念であったろうとは思う。

それが、夢ではなく現実になる可能性もあったかもしれないのだから。

しかし、夢見た理想世界が「夢」でしかなかったと失望するのに比べたら、どれだけ幸福なことか。

 

この竜馬と慎太郎の精神的な結びつきは、男女の肉体的な結びつきとの対比を成しているように思う。

映画の中で度々描かれる男女の性交。

セックスシンボルとしての幡の存在が、よりエロティシズムの表現に生々しさを与える。

男女の性交は、精神的な交わり(竜馬と慎太郎に見られた)の中で現出する砂上の楼閣のような感触とは違って、現実に手を触れられるものだ。

しかし、肉体的な結びつきは、それがどんな形であろうとも征服する側とされる側に分かれる。

竜馬と慎太郎の精神的な交わりで見られたような、対等の立場はどうあっても生まれてこない。

どちらが正しいなどと言うつもりはない。

ただ、肉体的な死だけではドラマを生み出さないように、肉体の交わりだけでもドラマは生まれないのだ。

それは、生の営みであって「物語」にはなり得ない。竜馬の最期には、ドラマを生み出す精神的な交わりこそがふさわしい、と思う。

 

混沌とした動乱の時代を走り抜けた竜馬。

現代に生きる我々には知ることの出来ない「生」を、彼は知っている。

もちろん私は、人間が容易に殺される世界を肯定しているわけではない。

しかし、そこでしか生まれてこないドラマがある。

そこでしか知ることの出来ない真実があるのだ。

我々には最早、映画や小説の中での疑似体験によってしか、それを知ることが出来ない。

だが、竜馬にはない、我々だけのメリットもある。

それは客観性だろう。

 

実際に動乱の時代を生きた竜馬には、自分の生と死を客観的に見つめる余裕などなかったに違いない。

本能では、それを感じ取っていたかもしれないが、それを省みることは不可能であっただろう。

しかし、我々にはそれができる。

映画というメディアを通して、自分の知らない時代、精神に触れ、考えることができるのだ。

それが、映画が存在する意味であり、我々が映画を観る理由ではないか、と思う。

理解できなくともいい。

理解しようとする精神こそが重要なのではないだろうか。

 

(平成某年某月某日識)

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