史跡廻国記
秋田史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
撮影地:秋田県秋田市土崎港中央3丁目
中世から近世初期までにおかれ、おもに安東氏が居した平城の跡。正確な築城時期は不明だが、説としては「秋田家系図」などを根拠として、安東鹿季の秋田入部にともなう応永年間(1394年〜1427年)はじめ説、宝暦期脱稿の近藤重記『出羽国風土略記』(『就補出羽風土略記』)永享八年(1463年)説など、いくつかがある。
慶長四年(1599年)、安東実季はいまの土崎神明社付近を中心に、周囲半径約250mの改築を実行。内堀・外堀(二の堀)をそなえ、正門を西南、搦手を北にひらいて、二の堀の外側には家臣屋敷を配置した。
慶長七年、常陸国へ転封する安東氏にかわり佐竹氏が入城すると、佐竹家臣団の規模に城は手狭だったらしく、翌々年には本拠機能の久保田移転にともない同城は廃棄。用材の一部は久保田城や佐竹家連枝屋敷のほか、寺院などに再利用され、内堀や土塁の一部は昭和までのこっていたそうである。
県外の方には馴染みのうすいであろう秋田県の戦国時代だが、同日ちょうど手に入れた秋田公文書館平成22年度企画展パンフレットの表紙が勢力図として手頃なので、ここに転載させていただく。
江戸時代には安東氏が秋田氏と名字をあらためて常陸国宍戸へ。戸沢氏は同国松岡。六郷氏は同国府中。本堂氏は同国志筑にうつり、小野寺氏・赤尾津氏は改易。仁賀保氏・内越氏は徳川家旗本。滝沢氏・岩屋氏・石沢氏は最上家の臣。下村氏は佐竹家の臣。祢々井氏は生駒家の臣となって近世期をいきた一方、浅利氏は慶長期に実質的に滅亡し、矢島氏は早く安土桃山期に滅んでいる。
秋田県の戦国時代は、この諸氏大移動にともない史料散逸がはげしいとされる。
(平成二二年一〇月二九日識)