史跡廻国記
秋田史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
撮影地:秋田県秋田市土崎港中央1丁目19-12
曹洞宗チ江山蒼龍寺(チは虫偏に「璃」の旁で構成される漢字。訓はミズチ)。寺は湊安東氏の菩提寺湊福寺の後身。
往時の岱雲山湊福寺は湊家初代の安東鹿季によって開基されたものと伝えられ、山号・寺号も鹿季の諡「湊福寺岱雲祟公」にかかわりもっている。
創建後一時衰微を経験し、安東実季の慶長期に再興。このとき山号もチ江山にあらためられたが数年後、安東氏の常陸国転封にともない寺の本尊・住持はこれに随従。宍戸藩・三春藩時代とも、安日山高乾院(宗旨も曹洞宗から臨済宗に改宗)として、秋田氏の菩提寺をつとめた。
無住になった土崎の湊福寺は、慶長再興時の開山天室宗龍禅師(実季の叔父)の漢字音にちなみに、延宝元年(1673年)寺号を蒼龍寺となして再興。山門は湊城の裏門を移築したものであったが、さすがにいまは残らない。
同所は慶応四年(1868年)五月九日に、奥羽鎮撫副総督沢為量の宿舎にあてられたといい、こちらの所縁目当てで私は何となく訪問。ただ『秋田県史 第四巻 維新編』には九日の宿泊先を土崎出入役所に宿営した
とも、土崎港蒼龍寺に往いて宿し
たとも記述する。
前者の出典は『復古記』に載る『佐竹義脩家記』同日条とおぼしいのだが、後者の出典はいまのところ私未詳。役所(土崎港の御蔵町・穀保町・南一丁目あたり)との距離が一寸気にならなくもないが、部隊を分宿させたのかも知れない。
(平成二二年一〇月二九日識)