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秋田史跡記(一)

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土崎湊跡


秋田史跡 H22.09.26(〇〇五)

土崎湊跡
撮影地:秋田県秋田市土崎港西1丁目/関連リンク:秋田港・貿易


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 中世には三津七湊うちの一湊にもかぞえられた土崎湊の跡こと現秋田港。経済規模をのぞけば、いまでも何とか良港のはずである。近年は東北アジアやロシアを相手に、いろいろ市場・商路を開拓したいの心算らしい。

 歴史的には直接なにか事件・出来事があった場所というより、秋田城・安東氏・久保田藩・北前船などの要港として、運輸上の重要性が目立つ場所である。

 戊辰戦争では九条道孝・沢為量・醍醐忠敬ら三卿がひきいる薩摩・長州・佐賀・福岡・小倉諸藩兵の合流後、七月上旬に佐賀藩、下旬には海援隊士らが幹部をつとめる振遠隊、さらに武雄藩が同港をへて集結。八月中旬に大村藩・島原藩・平戸藩・薩摩藩・小城藩、九月上旬に福岡藩・佐土原藩、中旬に鳥取藩、下旬に松江藩とあいつぎ官軍来援し、庄内藩・仙台藩・米沢藩・南部藩ほか諸藩を退ける重要な兵站をになった(ただし、なかには土崎港や船川港へまわった船もあるので注意)。

 はじめ寡勢を理由に苦戦のつづいた官軍側も、人数あい増し必死に防戦。北部では南部藩をおしかえし、中央以南では出張部隊もとの本土諸藩府が、新政府軍の直接攻撃や圧力をうけて陸続降伏。おいおい反撃に転じて失地回復をえた。

 ちなみに「湊」と「港」は水にかかわる着停施設として同義の漢字。前者「湊」(奏)には「湊集」や「湊う」など、「集まる」とか「総じて」とかいった意も含意される都合上、水にかかわって集まるモノやコトや場所全般にかかりうる漢字である。

 河川の合流地帯や海運物資の集積地が名前の由来だろうと思われる地名もあれば、ミナト(水な戸)が由来とおもわれる例もあり、船の停泊施設として意味が限定的になってくる後代ほど、「湊」より「港」の用例がおおくなる。

 なお写真中央部にみえる船は、海上保安庁のあそ型(PL型)巡視船「でわ」。

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(平成二二年一〇月二九日識)

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