史跡廻国記
秋田史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
撮影地:秋田市八橋大道東
仙台藩殉難碑から秋田市街地へむけて移動する途中、「弘化三」年(1846年)の刻印がされた鶏卵塚と蜆塚をみかけたので撮影。梵語の「阿」字がきざまれる点から、供養・成仏をねがい建てられたものとみえる。他県でもあまりみた記憶のないたぐいの小塚だが、珍しいのものなのかはしらない。
ここに掲げている上の写真は「帝石」こと国際石油開発帝石の秋田鉱業所。秋田市八橋地区は国内有数の油田地として知られ、ちかくを流れる草生津川(くそうづがわ)は、石油の和名「臭水」(くそうず-「くさみづ」の音転-)にちなむ名とされている。
藩政期、草生津川西岸の当地には罪人を処断する刑場がもうけられ、川には刑人が末期の面影をながめたとされる何代目かの面影橋が架かっている。
慶応四年(1868年)七月に殺害された仙台藩士らは、草生津刑場のちかくへはじめ埋葬されたのち、西来院に改葬されたというのは既記のとおり。敵対したとはいえ、主命をおびた職責の途次に落命したその境遇を哀れんだためとされる。
改葬のさい秋田藩の有志者によってたてられた追悼碑は、殺害された仙台藩士らの所持金をもって費用にあてたそうで、殺害時に差しおさえられた彼らの金子(というか所持品?)は、総督府に一度呈されたのち、秋田藩へもどされ、彼らの追悼碑建立や秋田藩側の戦没者祭祀に支出されたそうである。
そうなると、いちいち藩の金蔵に約一〜二年間も「仙台藩士より押収した金子・所持品ですよ」と御丁寧に区分けしたうえで保管されていたのかと疑いたくなるが、仮に事実そのとおりだとすると、戦時や改革期の混乱のさなか、けっこうマメな処置だなと思わなくない。
(平成二三年六月一一日識)