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秋田史跡記(一)

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日吉八幡神社


秋田史跡 H22.09.26(〇二八)

日吉八幡神社
撮影地:秋田市八橋本町一丁目

 これまた日吉と八幡の社名から御察しのとおり、大山咋神と誉田別命が祭神をつとめる日吉八幡神社。分霊もとは近江の日吉大社および山城の石清水八幡宮とされている。

 来歴によると、その真偽のほどはともかくとして、安倍宗任が笹岡(いまの秋田市外旭川あたり)にたてたという日吉山延命寺無量院を社の前身とし、元亨二年(1322年)日吉八幡宮が同地に造営されたことで殿舎としてはれて独立。応永二年(1395年)上新城五十丁、天正一七年(1589年)飯島、元和元年(1615年)八橋狐森(いまの秋田市寺内油田あたり)にあいついで遷座し、寛永一九年(1642年)洪水のため罹災した。寛文二年(1662年)にようやく現在地へうつり、土崎から移住してきた町民たちによって形成された城下外町の鎮守として、いまにいたるまで永くこの地に座をとどめている。

 当社裏門は、廃院となった寿量院の山門を移設したもので、境内には宝永四年(1707年)造営木造三重塔・石川理紀之助顕彰碑・句碑一四基がのこり、往時をしのぶよすがになっている。

寿量院山門遺構

木造三重塔

石川理紀之助顕彰碑

 木造三重塔にかけられる扁額は、江戸時代前期の公家唐橋在庸の筆になるものといわれ、塔内には菅江真澄らによっておさめられた本居宣長の神像がいまも安置されているとか、いないとか。

 ちなみに菅原神社の項でも名前のでてきた寿量院とは、延享三年(1746年)に造営された徳川家の霊廟。同院の造営までは、佐竹家の菩提寺である天徳寺や帰命寺に御霊屋をもうけ、べつに位牌をまつっていたが、外様の有力大名として二心なきことを徳川家にしめすため、あらたに院地が設けられたものといわれている。

 戊辰戦争のさいには官軍側の病院として敷地・建物を利用され、その後は案の定、明治四年(1871年)になって廃院をむかえている。跡地は羽州久保田大絵図によると、だいたい八橋運動公園のサッカー場あたりになりそうである。

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(平成二三年六月一一日識)

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