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秋田史跡記(一)

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浄願寺


秋田史跡 H22.09.26(〇三〇)

浄願寺
撮影地:秋田市旭北栄町

 現在の外観ではあまり寺らしく観えないかも知れないが、ここは佐賀藩武雄鍋島家の兵たちが、慶応四年(1868年)七月二八日に久保田城下における本陣として利用した浄願寺である。

 根拠とした『茂昌公羽州御陣中日記』には寺町浄願寺与申処、御本陣相成候事とみえる一方、念のためこれまでも確認につかっている「羽州久保田大絵図」には「浄願寺」としておなじ文字が二カ所みえてややこしい。いまの浄弘寺の位置(現在地から南へ約400mちょっと行った旭北寺町)にみえる「浄願寺」の文字は、別年代の地図と念のためひき比べたかぎり、ただの誤記と判断し無視した。

 浄願寺は九州の名族肥後菊池氏一八代当主菊池兼朝の四男弘賢(俗名弘武)が開基した寺といわれ、松前国木古内に創建された通称「蝦夷浄願寺」をその前身とする。永正年間(1504〜1520年)、松前国における蝦夷との混乱をさけて津軽、ついで安東氏の土崎へうつり、近世には佐竹氏のまねきによって城下の現在地へうつったとされる。

 真宗本願寺派に属す当寺には、石山合戦時の檄文や請書がいまものこっているのだそうで、東北の片田舎にそんな文章がのこっているあたり、「さすが真宗系ネットワーク」と思わなくもない。

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(平成二三年六月一一日識)

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