三重史跡記(一)
三重史跡 H19.05.21
其之二
三重史跡 H19.05.22
三重史跡 H19.05.23
三重史跡 H19.05.24
三重史跡 H19.05.25
三重史跡 H19.05.26
史跡廻国記
三重史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
二見興玉神社の裏参道から龍宮社、夫婦岩[左写真]、日の神・皇居遥拝所をへて拝殿に到着。同社の祭神は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)と宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)。御神体の一つ(サルタビコの化身「興玉神石」)を沖合海中にゆうすることから、海を本殿とみなして建物として本殿はもたない。
なおウカノミタマについては拝殿のちかくの天の岩屋にてこれを祀るとのこと。
当日(5月21日)はちょうど同社の名物的神事 藻刈神事の施行日にあたり「何処に行けば見学ができるんだろう」と境内を一人ウロウロする。あとになって知った話だが、どうも夫婦岩の沖合約770mにて行われる神事らしく、これは当然見学なんぞできようはずもない。社務所でお守りを両親へのお土産として購入後「もう終わっちゃったのかな?」と見当をつけ、境内を退散する。
かわらじな 波はこゆとも 二見がた 妹背の岩の かたき契りは
宣長
■1.伊勢市二見町茶屋 |
■2.伊勢市二見町茶屋 |
うたがふな 潮の花も 浦の春
芭蕉
■3.伊勢市二見町茶屋 |
波越すと 二見の松の 見えつるは 梢にかかる 霞なりけり
西行
■4.伊勢市二見町茶屋 |
上記のほかにも点在する碑をいくつかまわり、国道42号線へむかって南下する途中、あとあとの昼飯用に赤福(8個入)を購入。ついで店名にひかれるまま刃物店「菊一文字則宗本店」へたちより、予期せずして弟へのお土産も購入。「このお店は後鳥羽天皇が好きなんだろうか、一文字則宗が好きなんだろうか、それとも安直に沖田総司が好きなんだろうか」などと考えているうち、皇大神宮摂社 堅田神社[左下写真]に到着した。
堅田神社の祭神は佐見都日女命(さみつひめのみこと)。JR東海のパンフレットによると、祭神はこの地方の国津神、倭姫命に堅塩を奉った故事により同社は定められたものという。社名は「潟田」、神名は同地区「音無山」の別名「佐見山」に由来するとみてよいだろう。もっとも「その佐見山の語源は?」とか私に聞かれても困るが。
ついで神社から道をもどし、明治十五年(1882年)に我が国初の海水浴場としてひらかれたらしい二見浦海水浴場に到着。あえて「らしい」というのも、神奈川県大磯海水浴場(元幕府の蘭方医としても知られる松本良順の唱導により明治十八年開設)こそ、その嚆矢とされる例が多いので念のために付記してみた。
ほかにも兵庫県須磨明石海岸(明治十三年)、愛知県千鳥浜海岸(明治十四年)を初の海水浴場とする例もあり、要はなにをもって海水浴場の開設とみなすか、それが問題となる。
我が国でも潮浴(しおあみ)とか潮湯治(しおとうじ)とかいって、中世以前から自然療法の一つとしておこなわれていた海水浴。右下写真左の歌をよんだ鴨長明もその実践者の一人で、彼には今の愛知県大野海水浴場でよんだ「生魚の御あへもきよし酒もよし 大野のゆあみ日数かさねむ」なんて歌もつたわっている。
うえは皇大神宮・豊受大神宮に堅塩を献じる皇大神宮所管社 御塩殿神社の入口にたつ碑文。歌意は明瞭なので敢えて説明はしない。
歌の様は、縁語とみえる「塩」と「みち」、長久を示唆す「千代」と「松」、さらに「みち」の語にあるいは藻塩焼の煙の景まで折り込んだか。上の句で場所を、下の句で景を描き出す、そんな構成にもなっている歌だろう。
さて、御塩殿神社の祭神は御塩殿鎮守神(みしおどののまもりがみ)。記紀にみえるシオツチノヲジとは一説に同神ともいう。後者は語義上、海水ないし潮の干満を神格化した(シオは「潮」、「ツ」は助詞、「チ」は神秘的な力を意味する古語)とみられる神だけに、イメージとして納得はできる。なお東北の鹽竈神社も製塩の神としてシオツチノヲジをまつる。
境内では本殿参拝後、反時計回りに裏へまわって御塩焼所と御塩汲入所[右上写真右]をデジカメに撮影。御塩焼所は塩水を鉄鍋で煮込み粗塩をえる施設で、御塩汲入所はその塩水の保管場所にあたる。写真では御塩汲入所がみきれちゃっているが、カメラマンの腕のせいゆえ、気にせんで欲しい。
つぎは現在地二見町荘地区から同三津地区へ移動する。
(平成某年某月某日識)