三重史跡記(一)
三重史跡 H19.05.21
其之三
三重史跡 H19.05.22
三重史跡 H19.05.23
三重史跡 H19.05.24
三重史跡 H19.05.25
三重史跡 H19.05.26
史跡廻国記
三重史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
地図をみながら三津地区を移動中、ふと「硯岩」と書かれた説明板に目がとまる。板によるとその岩は三津字前山の北斜面にある巨岩のことらしく、上面には長方形のくぼみがあり、地元では源義経四天王の一人 伊勢三郎義盛「手習いの硯」としてつたえられているとか。
出身地や所縁の地について異説のおおい義盛ながら、同地では伊勢度会郡二見郷江出身説におもきをおいてるらしく、その屋敷跡や佩刀もいまに残されている旨、その説明にみえる。
これには一寸興味もひかれたが「手掛かりも予備知識もなしに、この山道[右下写真左]に入るは無謀かも」と考えて素通りし、やがて万葉集歌のきざまれた石碑まえに到着。この歌の作者は「碁檀越」なる人物の妻で、碁檀越が伊勢におもむいたさい留守をあずかる妻が詠みあげた歌という。
歌中の「浜荻」は伊勢の方言で葦のこと。歌語や物語に登場し相応著名な方言とみえて謡曲「葦刈」(世阿弥作)には「この芦を伊勢人は浜荻と言ひ、難波人は芦と言ふ」との一節もみえる。
現代人の語彙では難読歌のすくなくない万葉歌だが、件の歌は一語々々の意味自体さほど難しいものでなく、伊勢の芦原が風にそろって折り伏せる景と、人気のない浜辺に一人旅寝する男との景が対比された、一種の叙景歌と観ることができよう(歌はあくまでも実景でなく、妻の推量にそくし歌われるが)。
つぎに、特別興味のひかれる施設でもないが伊勢・安土桃山文化村を目の端にとらえ、以後はただしばらく移動する。途中、西行が庵をかまえたとされる安養寺の跡をへて、神宮御園[左写真]のそばを通過。
この施設は神宮にそなえる神饌のうち、おもに野菜・果物の類を栽培する農園で、明治三一年(1898年)の開設。中世までは御厨(所謂「荘園」のこと)、近世には神宮の近村、明治前半には市内業者からそれぞれ調達していたものをあらため、大正十三年(1924年)と昭和十年(1935年)に拡張・整備され現在にいたる。ちなみに見学にはグループで事前予約が必要のよし。
五十鈴川にかかる汐合橋をわたってしばらく鹿海町の農道を南下。この近くには皇大神宮の末社になる加努弥神社があるそうなんだが、あいにく私には見つけらず何時のまにやら素通りしてました。これは今回の旅で一番口惜しい未見史跡かもしれない。
やがて農道をすぎ、朝熊町にむかって再度五十鈴川をわたって皇大神宮の摂社 朝熊神社と朝熊御前神社[右写真左]を参拝。祭神は大歳神(おおとしのかみ)・苔虫神(こけむしのかみ)・朝熊水神(あさくまのみずのかみ)と朝熊御前神(あさくさみまえのかみ)の計四神。
『皇太神宮儀式帳』によると同書が撰進された延歴年間、大歳神の神名はまだなく、桜大刀自神(さくらおおとじのかみ)がその一神とされている。
祭神はいずれも同地の五穀ないし水の神々とされ、朝熊の地名も「川が浅く隈をなして曲がり流れ」る"浅隈"の様によるらしい。
大歳神は年初や季節によってやってくる去来神。民族学的には田の神信仰との関連が指摘される農耕神で、桜大刀自神も季節と関係がありそうな名前だから、そこら辺の事情で入れかわった(ないし同神とされた)ものだろうか。
苔虫神については「苔むす」の意で、長久を讃えいえる神名とみておこう。もっとも、かなりおぼつかない解釈だ。
朝熊御前神社の成立以前、ほかならぬ朝熊神社の御前神とされていた皇大神宮末社 鏡宮神社が右上写真右。朝熊神社・朝熊御前神社に参拝後、階段をおりていたさい、目のさきに社殿があるのに気がついた。「案外、見落としちゃうもんだよなぁ」と自身の不注意をタナにあげて思ったりする。
鏡宮神社の祭神は岩上二面神鏡魂(いわのうえのふたつのみかがみのみたま)。かつて神域東北の岩上にあったという二面の神鏡に由来する神名。社殿の背後には虎石・潮干石と呼ばれる奇岩もあるらしいが、私はたまたま忘れていて未見。じつにマヌケだ。
(平成某年某月某日識)