史跡廻国記
京都史跡記(三)
大阪史跡記(一)
兵庫史跡記(一)
撮影地:大阪府高槻市城内町
高山右近、三好長慶の麾下松永久秀にしたがい大和国宇陀郡で沢城主をつとめた飛騨守友照の長男。生まれは摂津国高山庄(大阪府豊能郡豊能町高山)。実名(諱)には「長房」など複数あり、ほかに茶人として雅号「南坊等伯」、洗礼名に「Justus」(記念聖堂碑文でのよみは「ジエスト」)などある。
キリシタンとしては永禄七年(1564年)、はじめ弾圧的政策でキリスト教にのぞんでいたという父の変心にともない右近もキリスト教に入信。このことが終生を決定づける一方、武将としては元亀四年(1573年)、当時所属していた主筋の和田氏をうち高槻城を奪取。以後、同地を拠点としながら荒木村重・織田信長・羽柴秀吉らにしたがい活躍する。
天正十三年(1583年)には明石六万石へ加増転封となるも、やがてキリスト教にたいする秀吉の政策転換によって除封改易(棄教を拒んだため)。転々と小西行長・前田利家・同利長らにしばらく庇護されたが、徳川幕府による慶長の禁教令により日本国外へ追放、慶長二十年(1615年)マニラの地に没した。
なお写真の像とほぼ同型のものがマニラはルソン島のパコ駅前に建っている由。
(平成某年某月某日識)