史跡廻国記
京都史跡記(三)
大阪史跡記(一)
兵庫史跡記(一)
写真は、石見国でおこった稚児争いに端を発し、ここ芥川宿が決戦の舞台となった仇討ち事件の現場跡。「郷土史研究会 中西七丘」なる人が昭和五十二年四月に誌したらしい説明版によると事情は以下のとおりです。
「当芥川宿の仇討は今から凡そ三〇〇年まえ江戸時代初期の出来ごとである。 石見国吉永(島根県大田氏南部)の城下で二人の若侍が同藩の美しい稚児の争奪からその意趣遺恨で果合をしたのが発端である。 ことにその経緯の仔細は盡くせないが要するに下手人の侍は自分の邪推からもう一人の藩士を江戸表で殺した。 殺された藩士の子息助三郎という若殿は、秀吉の臣で文禄慶長の役の水軍の将であり賤ヶ岳七本槍の一人でもあつた加藤左馬之助嘉明の曾孫という貴公子であつた。 親の仇討を深く心に決めた彼は京の剣客について日夜剣をを学びすこぶる上達した。 助太刀の剣士と若党を従え敵を求めて諸国を遍歴すること二年有半、虚無僧に身をやつし一管の尺八で門付けする敵が当芥川宿の旅籠に入るのをついに見届けた。 初秋のもう肌寒い夜明け、敵が宿を立ち去るところをこの辻で助三郎少年は声高々と名乗りをあげて踊りかかり不倶戴天の敵を討ち取りめでたく本懐をとげた、時に弱冠十四才であつた。 討たれた八之丞の懐中から一通の書状が出てきた、それには自分は二人も殺した人間であるため討たれて当然であり旦、討つ方に咎はないとあつた。 この仇討は双方が当時の武士道のモラルを貫いた美談として広く全国に喧伝されまた風俗史の上からも貴重な資料として『続近世畸人伝』などの諸書にも取り扱われた。
因にいえば大通寺の中興の名僧南谷はこの助三郎の実弟である。」
一読「氏家幹人氏の書籍のネタにでもなってそうな話だな」とか思いました。
ちなみに文末にみえる「大通寺」というのは、清和源氏(陽成源氏?)の祖 経基の霊廟に由来を発する大通寺遍照心院(京都市南区大宮通九条下ル)のこと。鎌倉三代将軍実朝夫人(本覚尼、坊門藤原信清女)により現今の寺号などがさだめられ、元禄ごろ「僧南谷」によりいまの六孫王神社などが建てられた。ゆえに「中興の名僧」なのだろう。
(平成某年某月某日識)