史跡廻国記
京都史跡記(三)
大阪史跡記(一)
兵庫史跡記(一)
撮影地:大阪府高槻市郡家新町あたり
郡家跡から西へ数百m、いまではその協力な発掘成果もみとめられ、すっかり宮内庁公認の「三嶋藍野陵」(別称:茶臼山古墳)をさしおいて、一般にも継体天皇陵として認知された観のつよい今城塚古墳。「福井県で継体天皇関係の史跡をまわった身としては、コチラにもやはり参らざるわけにいくまい」と勇んで到着したものの、御覧のとおり立ち入りできませんでした。
同所は現行のかぞえかたで第二十六代目にあたる継体天皇御陵最有力地。ゆえに『古事記』では「三島之藍陵」、『日本書紀』では「藍野陵」と称される御陵に比定される。ちなみに現号の「今城」は戦国期に三好氏が同地に城を造営したことに由来する呼び名。
古墳は継体天皇が崩御された甲寅年-534年(紀「或本云」説による。記は丁未年-527年説、百済本記は辛亥年-531年説)前後の造営とおもわれ、規模は全長約190m・全周約350m・総幅約340mという大きなもの。
訪問時はちょうど史跡公園化にむけた第四次整備工事のため、当方は遠くから拝むだけに終わりましたが、「享保の比定作業から漏れたおかげで、また大正から昭和に論じられた比定説が宮内省・庁に等閑視されたおかげで、斯く天皇陵の発掘作業ができるんだから、ある意味因果な御陵かもしれん」と、工事事務所においてあった整備計画案内書(A面・B面)をながめながら思ったりする。
(平成某年某月某日識)