や行
其之一
[慎太郎と]京師にて面会、始めて知己と相成り、爾来顕[田中光顕]は兄として事うれば、中岡氏顕を見て弟として愛す。時々其の教諭を得、実に益友を得、喜踊に堪えず。中岡氏は東群の大里正なり。その在郡にあるや郷民皆その徳に伏す。[中略]今年[慶応元年]廿七歳、其人となり深沈にして胆力あり、当時土州脱藩士五六十在せりと雖ども、恐らくはその巨魁なるべし。坂本龍馬・近藤昶次郎・清岡半四郎・橋本鉄猪の諸人物、又肩を並ぶべし
[薩摩・長州]両藩之情実最初より関係仕候能々相弁居候者、横山勘蔵・才谷梅太郎[中岡慎太郎・坂本龍馬]両人
かねて西郷、中岡氏を称して『節義の士なり』という
当時[元治元年]の招賢閣の浪人組の巨頭は真木和泉守だが、彼の歿後は中岡慎太郎が隊長と目されていた
[薩長]提携運動を起こした坂本[龍馬]、中岡の苦心というものは、なみ大抵のものでない、勤王倒幕の第一線に立って、剣戟弾雨の間に活躍した勇士の功も、むろん没すべからざるものだが、と同時に、両先輩が両藩の感情を融和せしめて、共同作戦の下に維新の機運を開いた努力を忘れてはならない。もし、両先輩が存在しなかったら、薩長の連合は行われなかったかもしれない、そうなると、維新の大業は、完成しなかったかもしれない、完成しても、よほど遅れることになったとみねばならない。中岡は『時勢論』の中におてい予言している。[中略]事実、天下の風雲は、中岡の明言したように動いていたのである
中岡を以て策士と見做すは誤っている。彼は西郷南洲と其型を一にする君子人であった[慎太郎が定宿として利用していた長太楼にふれて]
中岡が此の長太楼を定宿として変えなかったのは、其家に或る引力があった為であるが、英雄の情史の半面は天機漏らすべからずとして置こう。[中略]兎に角、中岡は非常に真面目な男であっただけに、坂本が大ビラにお龍を連れて歩いたのに比し、彼は極めて秘密の裡に閑日月を楽しんだものである
何時か[慎太郎が]一人で外出して帰ってきて『今日、祇園で湯に入ったが、素的な代物が一緒に入っていて僕は湯から出られなくて困った』という笑い話をしたことがあった。中岡は大体謹厳な人間な人であったけれども一方のこともなかなか剛の者であった[中岡慎太郎銅像除幕式によせた祝辞]
先生は石川清之助と変名して居りましたが、其の石川清之助の名は当時、同志の間に最も重きを置かれたのであります。[中略]中岡先生は坂本[龍馬]先生と始終仕事を一緒に致しましたけれども、坂本先生の名が最も広く世界に伝わって居ります。しかし、私は其の識見に於て、其の手腕に於て、中岡先生の方が遥かに優って居ったと思います。維新の原動力が三条[実美]、岩倉[具視]両公にあることを達観して、両公を握手させたのも先生であります。坂本、後藤[象二郎]に先だって政権を朝廷に奉還せねばならんと言う意見を唱道したのも先生であります。こう言う活眼の人が維新後まで生残って居たなら、吾々土佐人の肩身も一層広かったであろうと誠に遺憾に堪えないのであります[顕彰碑除幕式にて]
先生は弁舌さわやかで、剣をもって坂本龍馬より上であったろう。障害になる人物が現れると先生が行けば一時間の猶予も必要でなかった、一時間以内に、意のままに説き伏せて帰って来た
高杉と久坂玄瑞とが、常に相携えて長短相補っていたように、坂本の相談相手には中岡慎太郎がいる
中岡は頗る真面目な人で即ち精神家であった。精神家であるだけ、なかなか神経質な所があって一時は脳を悪くし養生かたがた水戸の住谷寅之介を訪ねたり、信州に佐久間象山を訪ねたりした。品行なども絶対に酒色を遠ざけるという程に融通の利かぬ男でなく、始終その起居を共にした自分としては天機漏らす可らざる事も知って居るが、大体に於いて謹厳な男で、その性格がよく西郷に似ていた。中岡は何時も西郷の人物を推賞し、西郷もまた中岡を賞賛して居た
忠義填骨髄
田中光顕
両人[慎太郎・坂本龍馬]とも随分武辺場数の士で、殊に坂本は剣術は無逸の達人[慎太郎・坂本龍馬の没後を評し]
両士[慎太郎・坂本龍馬]の倒れし殆と瞽者の杖に離れし思いあり[慎太郎・坂本龍馬の式年祭における谷干城の祭文]
[慎太郎・坂本龍馬]両君が国家に尽されし誠忠大義は天下皆知る所なり。何ぞ余輩の贄言を待たんや。只両君が我土佐の為め、我が山内家の為、汲々として心思を尽されしは之を知るもの鮮し。此れ余は一言して両君の霊に感謝すると共に世のコウコウたる鄙夫が国を去り悪声を放つの徒と頗る其撰を異にし其慮り周密其量海の如し。是れ余が天下に告白せんと欲する所なり。回顧すれば慶応三年に到り天下の形勢、日に益す切迫せるや二君故国を思うの情に堪えず、務めて郷里の同志を誘挺提携し且つ告げて曰く、此般の大事に少数人士の能く為す処に非す細故を棄て旧怨を忘れ一致協力国家に尽さざるべからす、吾輩多年諸国を浪々何の得る所なし事已に急なり個々の忠情精手とイエドモ遂に何か益かあらんや、只速に一国を打て一団と為し一致の運動を計らざるべからずと是れ両君が細故を棄て大義を講じ我が土佐の為め心力を尽し肝胆を砕かれし所以なり。彼の中岡君が一意専心薩土の親睦を謀り、坂本君が特に嫌疑を深き身に拘わらず、突然三千挺の小銃を輸送して土佐に還り戦争の脚下に起るを警告せしが如き天下之を知るもの鮮し。嗚呼、南洲翁が寛弘の量、坂本中岡両君が我が土佐の為に尽されし誠意遠謀は余輩之を回想する毎に涙の潜然たるを覚へさるなり。イエドモ然両君逝て僅々四十年黄龍八巳に鼻端を屈し大鷲は巳に羽翼を殺がれ四海波を揚げず、旭日隆々中天に昇る両君の志正成矣両君其れ瞑すべし
谷干城
浪士之巨魁なる吾藩之者、坂本龍馬、中岡慎太郎
寺村左膳
坂本さんときたら絹のお着物に黒羽二重の羽織、袴はいつも仙台平時には大胆に玉虫色の袴などをおはきなって、一見、おそろしくニヤけた風でございましたが、胸がはだけてだらしなくお召しになっているので、せっかくのお洒落がだいなし。後のことですが中岡慎太郎さん(この方はまたちっとも構わぬお人でした)が『坂本はなんであんなにめかすのか、武士にはめずらしい男じゃ』と、お首をふりふりなんども不思議がっていらっしゃいました
殿井力
(平成某年某月某日識)