史跡廻国記
秋田史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
撮影地:秋田県秋田市寺内大畑
秋田県護国神社の拝殿南方あたりに位置する秋田城の政庁跡。写真はその正殿区画。
写真のように地面にほどこした敷設によって施設範囲を明示するという手法は、大阪府高槻市の嶋上郡衙跡や同じく大阪市の難波宮跡公園などを回顧するかぎり、けっこう一般的なものらしい。
そばには縮尺二〇分ノ一1基、五〇分ノ一2基の復元模型が展示されており、斎宮跡でみた同種の模型が再びここで思い出された。
城の中核をなすこの政庁に、国府機能が庄内方面からうつされていたのかについては、移転に賛否両説があるものの、移転説に有利な発掘や史料解釈がすくなくないこともあって、一般には移転説のほうが現在優勢の観がある。
一往ここで秋田城について概略をのべておくと、当城は奈良時代に築かれた城柵の一。城柵とは古代に朝廷によってもうけられた特殊な行政施設のことで、該地の支配や辺境異族との交流など(交渉・交戦・朝貢など)を担う官衙のことである。
「城柵」という字面や響きからは、軍事施設にちかいものを真っ先に想像したくなるところだが、構造はあくまでも都城にちかい役所であって、軍事施設としての性格は想像されるよりかなりよわい。
史料における秋田城の初出は『続日本紀』天平五年(733年)一二月己未(二六日)条の出羽柵遷置於秋田村高清水岡[出羽柵を秋田村高清水岡に遷し置く]
で、。アキタジョウという呼び名は天平宝字四年(760年)三月一九日付「丸部足人解」中の阿支太城
が最初とされている。
官衙として秋田城の寿命は、律令制が弛緩していく一〇世紀後半にはむかえていたものとみられ、発掘上、主要な遺構も一一世紀以降のものは確認されていない。よって、終焉期や中世以降の秋田城については今後も課題とされることが多い。
(平成二二年一二月一九日識)