史跡廻国記
秋田史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
撮影地:秋田県秋田市寺内鵜ノ木
祭祀などにつかわれた古代の沼地跡南方に位置する四天王寺跡(推定)。
いちおう推定とことわったのは、役所施設・国司の館・太宰府の鴻臚館類似施設(ようは迎賓館)など、いくつかことなる見解がしめされるためで、発掘層の年代からここも一期から四期までの変遷が考えられている。
有力とされる四天王寺とは秋田城に付属した寺院で、『日本後紀』逸文(『類聚国史』・『日本紀略』収載)天長七年(830年)正月癸卯(二八日)条に、同月三日の秋田における出来事として城廓官舎、并四天王寺丈六仏像・四王堂舎等、皆悉顛倒、城内屋仆、撃死百姓十五人、支体折損之類、一百余人也 [城廓官舎ならびに四天王寺丈六仏像・四王堂舎など、皆ことごとく転倒、城内屋根倒る。打ち死ぬ百姓一五人、支体折損のたぐい百余人なり。]
と地震の被害報告に名がみえている。
現在「天長地震」などと呼ばれているこの地震は震度6.5以上、マグニチュード7.0から7.5規模と推定されるのだそうで、被害も地之割辟、或処卅許丈、或処廿許丈、無所不辟。又城辺大河、云秋田河。其水涸尽、流細如溝。疑是、河底辟分、水漏通海歟。吏民騒動、未熟尋見。添河・覇別河、両岸各崩塞。其水氾溢、近側百姓、懼当暴流、競陟山崗。[地は割り裂け、あるところは三〇丈ばかり、あるところは二〇丈ばかり、裂けざるところ無し。また城辺の大河、秋田河という。その水かれ尽くし、流れほそく溝の如し。これ河底わり裂け、水漏れ海に通ぜるや疑う。吏民動じ騒ぎ、いまだよく尋ねみず。添河・覇別河、両岸おのおの崩れ塞がり、その水ひろがりあふれ、流れ暴れるにあたりおどろき、山崗にきそいのぼる。]
とすさまじい。
この過去の震度やマグニチュードは日本地震学会によると、史料に記される被害記録などから類推し値を求めるのだそうで、客観性には問題もあるが参考として役立つ指標ではある。
(平成二二年一二月一九日識)