京都史跡記(二)
京都史跡 H16.06.13
京都史跡 H16.06.14
其之二
京都史跡 H16.06.15
京都史跡 H16.06.16
京都史跡 H16.06.17
史跡廻国記
京都史跡記(二)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
大山崎町駅前ベンチ、京都駅で購入してきたお茶と赤福餅で朝食をとる。曲がりなりにもこれから山登りをするわけでもあるし、一応ここで糖質を補給。もっとも、ただ単に赤福餅が食べたかっただけですが、はい。
その朝食中、駅からもほど近いサントリー山崎蒸留所へ後学のためにも足を運んでおくべきか、今更ながら迷ってみるものの、当然「時間ないし無理だわな」という結論に落ちつき、駅前地図で天王山の場所を確認後、山へ向かって出発進行。駅からは殆ど目と鼻のさきである。
■ 1.乙訓郡大山崎町字大山崎 天王山の入口付近には比較的急な勾配がつづき、アサヒビール大山崎山荘美術館への案内を横目に、忠勇隊も在陣した宝積寺(通称:宝寺)まで道をのぼる。写真は山門から宝積寺境内右手にみえる三重塔。かつて、この足下には真木和泉ら十七名が「長州賊徒の墓」として葬られていたという。 |
■ 3.乙訓郡大山崎町字大山崎 天王山々頂の標。下部に書かれている標高は270.4m。近辺には井戸や石垣の跡が散見される。かつて羽柴秀吉が明智光秀と対陣したおりに設けたものなんだとか。 |
■ 2.乙訓郡大山崎町字大山崎 宝積寺本堂をむかって左へと折れ、竹林道に迷うこと十数分くらい。近くで木の伐採に励んでいたおじさんに十七烈士の墓が何処らへんにあるかを尋ねると「そんな志士の墓は知らないなー」ということで、ふたたび本堂までの道を戻る。今度は正面を右へまがり、ただしい順路で山登りを再開。標高が低いという油断もあって、普段の旅行と変わらない服装まま、ハイキング装備の登山者を横目に山登りがつづく。 禁門の変における追撃戦で、会津藩が新選組を先陣にたて駆け上ったという山道を登り、途中旗立松の展望台で山崎の古戦場をながめる。この写真中央にみえる道路が名神高速山崎インターチェンジ付近。ここからのながめは京都方面ではなく、大坂方面らしいのだが「ここには忠勇隊も在陣しているはずだから松山(深蔵)さんたちも、ここからの眺望を望んだのかな」と思いつつながめ、さらに先へ進む。 ようやく山の八合目くらいに目的の墓所を発見。自らの火薬に火をつけ、自爆をとげたという一行の墓(写真中央の墓石題字は三条西季知の撰)一基々々をデジカメにおさめ、また手をあわせる。「自爆したはいいが、いまだ死にきれず唸っているところを、追撃の新選組と会津藩に首を斬られたという二名。あれは誰のことだったんだろうな」とか考えながら、さらに山頂をめざす。 |
山頂を付近をひと廻りして、忠勇隊も詣でたという天王社(酒解神社)を拝してのち下山を開始。下山ルートは二〜三種類くらいはあったと思うが、私は小倉神社をへて光明寺にいたる道をえらび、すべりやすい斜面に四苦八苦しながら下山を完了。「滑りやすいぶん、危険度でいうなら下る方がうえだな」とか思いながら、長州藩も陣営をおいた光明寺境内をとおり、あとは長岡京駅までボチボチあるく。
なお大山崎町には今回たちよった史跡のほか、幕末関連のものとしては、観音寺・大念寺・離宮八幡宮など長州諸隊(力士隊・宣徳隊・尚義隊・集義隊・八幡隊など)布陣の寺社地、真木和泉一行を一時休息させたという小原伝之丞宅跡などがある。
(平成某年某月某日識)