実家で酒小売業を営んでいる関係上、伏見区を移動しながら諸処の酒蔵へと目がうごく。
幕末期は知らないが、元禄の時分ここ伏見には六十六軒もの酒蔵があったようで、当時は洛中・洛外・近江国坂本を合算して六百二十六軒もの酒蔵が存在したという。計算上、そのうち約10%が伏見に集中していたことになる。
過去と現在では取りまく環境も異なり、かつてとは比すべくもないが、現在伏見区には二十八軒前後(参照する資料によって酒蔵の数が異なる。ゆえに前後)の酒蔵があり、往時のヨスガを感じさせてくれる。かつて「伏水」と当て字されることの多かった由縁に首肯しつつ道をいそいだ。
■ 1.伏見区西奉行町
写真やや右奥に伏見奉行所跡の碑がみえる市営桃陵団地前。一応、景観を損ねないように配慮された塗装法が印象的。
ちなみに龍馬が寺田屋で遭難した当時、ここで奉行職をつとめていたのは林肥後守忠交(林忠崇の叔父)。この人は安政六年から二十三歳で死去する慶応三年まで伏見奉行職を担当。補佐がいるだろうとはいえ、なんとも年若である。 |
■ 2.伏見区御香宮門前町
写真は御香宮神社内にある伏見の戦跡の碑。同所には薩摩藩兵が主に布陣し、すぐ南に位地する伏見奉行所在陣の旧幕府群と戦闘におよんだ。
実際に歩いてみて感じたが、両軍の距離は殆ど目と鼻の先。土方歳三が刀鑓をもちいる機会のなかったというこの戦いについて、一人勝手に「やっぱ飛び道具って大事だわな」とか感じ入ってみたりする。 |
■ 3.伏見区鷹匠町
文久二年の寺田屋騒動殉難九烈士の墓。墓の石字は西郷隆盛の筆による。
文字通りの「同士討ち」となったこの事件。眉間に斬撃をうけ眼球が飛び出した者、上意打に従い無抵抗のまま泰然と斬られた者、自ら同士に串刺しを命じる者、打ち手に後事を託し瞑目する者などなど、2〜3分ばかり人の死に様について考えてみる。 |
■ 4.伏見区鷹匠町
場所は大黒院のななめ向かえ、寺田屋お登勢さんの墓があるらしい松林院。御覧のとおり、どー見ても拒絶されてます。似たようなことの多かった、平成14年の京都旅行を思い出します。 |
■ 5.伏見区東堺町
寺田屋遭難後の龍馬らがしばらくのあいだ、手厚く庇護されていた伏見薩摩屋敷跡。現在ここには酒造業 松山酒造の事務所や酒蔵などが建っている。
かつては龍馬のほかにも、新選組から脱した御陵衛士の面々、寺田屋騒動連座者の一部など、ここに庇護あるいは預け置かれた人々は多い。
なお同所は伏見の戦で会津藩の手によって焼失する。 |
■ 6.伏見区下板橋町
写真は徳川御三家の一つ尾張徳川家の伏見屋敷跡。「尾州と紀州に屋敷はあっても、水戸にはないのね。伏見屋敷」と、憐憫の情を抱いてみる。
慶応四年の伏見戦では、すぐ近くの寺院「玄忠寺」に長州藩が布陣し、旧幕府軍と対峙した。尾州藩邸がどうなったのか、私は未詳。 |
以上。本日はここまで廻ってきたところで時刻もだいたい午後5時。残時のところは忠勇隊よろしく、竹田街道を御所ちかくまで北上しようかとも思ったが、どのくらい時間が掛かるのかわからない。
よって、本日の史跡巡りはこれにて終了。明日15日は洛外洛北の旧岩倉村から順次南下することに決める。