京都史跡記(二)
京都史跡 H16.06.13
京都史跡 H16.06.14
其之三
京都史跡 H16.06.15
京都史跡 H16.06.16
京都史跡 H16.06.17
史跡廻国記
京都史跡記(二)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
長岡京駅の駅員さんに伏見方面行きのバスをたずね、それに乗車。とりあえずバスに乗り込んでみたはいいが所詮余所者のこと、地理不案内につきドコで下車していいものか見当もつかない。車内アナウンスも聞かず、ただボケっと乗り込んでいたこともあって「ひょっとして下車すべき場所を通り過ぎてるか!?」と不安になり、あわてて下車。下りたのは伏見区羽束師付近。結果的に、そのまま乗ってればいいものを早まったことしました。
とはいえ、下車した時点では間違っているかどうかもまだ自覚がない。とりあえず現在地を確認するため、道路案内標識のありそうなところまで移動を開始。途中、目についた日本たばこ産業関西工場の大きさに感心したりしながら道をすすむ。京都市郊外は今回がはじめてということもあって、気分はさながら社会見学。ころんでもタダでは起きたくないらしい。
樋爪口の交差点で案内板を確認し菱川の交差点まで北上後、羽束師橋をわたるべく東へ右折。そのまま国道一号線まで真っ直ぐにすすみ、大手筋の交差点へ北上後ふたたび東折。ようやく今回伏見区における史跡巡りの始点大手橋に到着した。
■ 1.伏見区片原町 慶応二年一月、薩長盟約成立後、龍馬は伏見寺田屋において同奉行所の捕り方らに襲われた。龍馬と三吉慎蔵は寺田屋を脱出後、薩摩藩邸への逃走の途中、一時ちかくの材木小屋に難を避けた。んで、写真の位地らへんにその材木小屋があったらしい。なお写真中央に見える建物は月桂冠の昭和蔵。 |
■ 2.伏見区村上町 写真は「富翁」の酒銘でも知られる酒造業社北川本家のやや後方付近。幕末期には芸州藩伏見屋敷のあった場所。龍馬避難の材木小屋は月桂冠側ではなく、むしろコチラ側にあったともいう(史跡案内図ではコチラ側をその該当地に指定する例が多い)。 正直なところ、余所者の私には町割りの変遷までフォローしきれません。 |
■ 3.伏見区片原町 月桂冠昭和蔵を玄関側からとらえた写真。当時は紀州藩の伏見屋敷があった場所。 門前で「伏見にはここのほか、尾張・薩摩・熊本・因幡・安芸・長門の諸藩邸があるけど、機能的には人員収容のほか、何か特別な機能意図とかはあったのかね?」とか考える。無論、考えただけじゃ答えはでない。 |
■ 4.伏見区南浜町 文久二年の寺田屋事件、慶応二年の龍馬寺田屋遭難など、幕末史に名高い伏見寺田屋。鳥羽伏見の戦いにより当時の建物は焼失済みだが、そのご場所をやや西よりに移し現在の位地に再建された。幕末期には現在の顕彰碑の場所に建物があったらしい。 |
■ 5.伏見区表町 寺田屋ちかくの京橋からみえる三十石船。幕末がらみで三十石船を想起すると、寺田屋事件につらなる薩摩藩士らの集合エピソードが思い出される。「川船から狙撃するのって、当時の水流だとやっぱ難しいだろうなぁ」とか考えてみる。 |
■ 6.伏見区上中町 京橋をわたった西側には幕末期、禁門の変のおりに自焼したという長州藩の伏見屋敷があった。当時の正確な場所まではイマイチ良くわからないのだが、あらかじめコピーしてきた手もとの史跡図を頼りにあたりを撮影。進軍ルートから考えるに、忠勇隊ら山崎方面軍の手による自焼かと推測。 |
写真3番の片倉町から4番南浜町にいたる途中、名前が名前なので竜馬通り商店街へ足をはこぶ。特に意図もなく、ただブラブラ歩いていたところを寿司屋「かき仙」のまえにて呼び止められ、話の流れからそのまま遅い昼食(当該時刻は午後3時過ぎ)をとる。
店の御主人と龍馬についての会話をいくつか交わしつつ、オススメらしい「龍馬寿司」(鯖寿司、ようはバッテラ)を完食。最初は話のネタにと割り切って食べましたが、私が鯖好き(というか魚介類好き)ということもあり、普通にかなり旨かったです。それと御主人から御土産に伏見の観光案内ビデオをもらいました。なにげにラッキー。
その後、みやげもの店「龍馬館」にて店員さんと二〜三会話。店員さんの話によると「今日は閉まってるみたいね、寺田屋」とのこと。
のこりを写真番号順にまわったら、あとは大手筋通りまで戻って伏見区の東側へ移動する。
(平成某年某月某日識)