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坂本龍馬の目録

文久二年〜元治元年

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友と同志と〜文久二年江戸〜


 脱藩から西国方面の遊歴をへて、京坂でしばしの潜伏後、龍馬は土佐藩主山内豊範らの入京と前後するように江戸下りの途についたことは既にのべた。

 資料が伝記のみによる制約上、この八月東下説にいささかの不安はないでもないが、目下のところ矛盾する他史料も見当たられないので、ここまま論をすすめたい。

 既記以外で龍馬にかんする話題としては、土佐勤王党員らを中心としておこなわれた翌閏八月の本間精一郎殺害事件があげられる。後世「人斬り」の称でしられる岡田以蔵が龍馬の佩刀肥前ノ忠広を借用し、鋩子を破損したと五十嵐敬之が伝聞として伝えているためだ。これを松岡司氏は半平太の差料のあやまりであろう(『武市半平太伝』)としているが、五十嵐によるとこの刀は維新後九段の遊就館に陳列せられて居るとのことの由である。

 遊就館にこの刀が現在も残っているのかは知らないが、五十嵐の証言自体が又聞きとおぼしいうえに、武市の日記にも以蔵に刀を貸していたむねの記事がみられるので、ここは松岡氏の意見に賛したい。小美濃清明氏が記すように兄権平の大事にしていた刀を龍馬が貸すだろうかという疑問が残る(『坂本龍馬と刀剣』)とも私的には思えるのだ。

 伝記のつたえるところよれば龍馬は江戸到着後、千葉重太郎方に居候したとも東府芝金杉、内田某方に潜居後、千葉周作方に寄(『土藩坂本龍馬伝』)ったともいう。後年、千葉佐那が再び私の道場へは姿を見せませんでした(「千葉灸治院」)と回顧している点をあわせ考えると、後者の説にでもやや分があるだろうか。

 閏八月から九月ごろになると、当時江戸で土佐勤王党の幹部として活躍していた間崎哲馬の漢詩に与、門田為之助、坂本龍馬、上田楠次、会飲スとの端書きがみえ、ようやく同時代史料から龍馬の足跡が確認できるようなる。したは九月一〇日付同人書簡の一節だ。

●村田忠三郎宛間崎哲馬書簡

此地[江戸][上田]楠次兄弟、[門田]為之助、外輪にては龍馬。いづれも苦心尽力、小子事も無事に周旋。

 この書簡は大雑把に勤王活動の近況をほうじる書簡なので、具体的な龍馬の活動内容がつづられているというわけではないのだが、脱藩・京坂遍歴後も土佐勤王党との関係は依然維持されていたものと察せられる。

 やがて一〇月下旬には三条実美・姉小路公知両勅使にしたがい、武市半平太ら多数の土佐勤王党員が江戸に到着。一一月一二日に外国公使刺殺を企図する久坂玄瑞と高杉晋作に、龍馬は半平太と同道で面談した(参考 菊地明『坂本龍馬進化論』)。一三日には公使刺殺計画にたいする半平太の抑制工作が本格化するので、事実なら両者は一二日の会見でこの計画を知ったか、あるいはその意志を確認したものと思われる。

 その後、半平太の工作や土佐藩老公山内容堂の抑止策が功をそうして同計画は中止。その流れのなかの一三日深夜から一四日未明、長州藩の周布政之助が蒲田村梅屋敷において、攘夷実行をはばんだ容堂を侮蔑し、その言動が問題(所謂「蒲田梅屋敷事件」)となって、土佐藩・長州藩のあいだに外交問題が勃発した。

 事件はさんざんゴタゴタしたあげく、現場のちかくの別邸に控えながら、周布にたいし咄嗟に抗議の声をあげえなかった下士勤王派の責任問題にまで飛び火。小笠原唯八や乾退助など、容堂側近の上士たちが問責するところによって、事態は間崎哲馬・門田為之助・岡本恒之助ら三名の切腹をもって収拾をはかることに決まった。

 それにともない一八日には下士勤王派の会合がひらかれ、それが別れの宴にもなかろうかというところ、半平太が容堂の他日我が馬前に死せよ(『維新土佐勤王史』)という言質をえて会合の場に到着。三士の切腹は回避された。

●『皆山集

坂本龍馬等も亦密会す。龍馬、脱走中なれども私に品川にて周布等に談判の際、列席せし事あるをもてなり。

 亡命の身をかえりみず龍馬が会合に参加した背景には、間崎哲馬・門田為之助・岡本恒之助らがともに龍馬とは旧知のあいだがらゆえ、その心配もあってのことなのだろう。

 ちなみに下記の漢詩はさきに少しふれた間崎哲馬の漢詩本文。この詩自体が龍馬のため詠まれた詩とまではいえないが、龍馬の立場になって享受してみるのも案外おもしろい内容ではある。

●間崎哲馬漢詩

 匡時壮略少知人[匡時、壮略、知る人少なし]
 相遇作歓相対悲[相遇ふて歓を作し、相対して悲しむ]
 為酒典衣非俗態[酒の為衣を典するは俗態に非ず]
 因人成事豈男児[人に因って事を成す、豈男児ならずや]
 花柳依稀京国夢[花柳依稀、京国の夢]
 風濤淅瀝虜船旗[風濤淅瀝、虜船の旗]
 繁華消歇眼前事[繁華消歇、眼前の事]
 休唱江門新竹枝[唱ふを休め、江門、新竹枝]

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(平成一九年四月二九日識)

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