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坂本龍馬の目録

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討つべし〜人を斬る〜


 いきなりの昔語りで恐縮だが、私がうまれてはじめて読んだ龍馬伝は、マンガもふくめると小学生のころ図書館で読んだ「学研まんが人物日本史」シリーズの一冊『坂本竜馬 幕末の志士』だったかと記憶する。現行の版でどうなっているのかは知らないが、同書ページ欄外の柱には龍馬や勝海舟が生涯人を斬ったことがないむねの一行知識が書かれていた。これは同シリーズ『勝海舟 江戸城明けわたし』でも同様だったかとおぼえる。

 以来『海舟日記』文久三年(1863年)二月五日条龍馬、近藤、新宮、岡田、黒木等、御船に来る。云う、岡田星之助、悪意これある間、撃つべきと義決せり。もし御船出帆の機に遅れなば、陸行すべしと云う。をうけた

●「坂本龍馬 海援隊始末記

 岡田星之助というのは因州鳥取藩士で千葉重太郎の門人であり、攘夷論者だったが「土佐人と事を論じ斬殺された」と、その略伝に見え、事件の内容は明らかでない。だが龍馬の仲間がこれ(斬殺事件)関与していたことがわかる。

●「龍馬のすべて

将軍上京前の事件だが、これは龍馬を劇的にあつかつためには、かっこうな秘話ではないだろうか。
 岡田星之助は因州鳥取の藩士、尊攘派の一味で故国を去り、江戸に出て同藩の剣術指南になっていた千葉重太郎の弟子になった。龍馬とは同門の縁につながるわけだが、彼のいだく悪意とはなにを意味するものかはわからない。『大日本人名辞書』には「或は言ふ、土州人と事を論じ遂にこれがために斬られたり」とあるだけだ。しかもこれを前期の『海舟日誌』に対照すると勝塾の塾生たちのしわであったものと推定され、龍馬もその一味だったことがわかる。

という記述を読むまで、私もふかく疑問をはさむことなく一行知識のままに思いとどめていたし、しばらくはその後も岡田以蔵こと「人斬り以蔵」を主犯とする何かしらの事件に、龍馬もかかわったのだろう程度に理解していた。
 これは勝海舟が回顧談『氷川清話』で、以蔵に刺客からすくわれた話しを文久三年三月ごろのこととして語っているため、時期が大雑把になりがちな回顧談という性格を考慮し、ややそれに引きずられていたかの観が我ながらなくもない。

 のちに松岡司氏による件の岡田が以蔵とは別人であるむねの指摘を読んで、龍馬に人を斬った経験があるのかどうか、白とも黒とも断定しかねるように考えがかわった。『異聞・珍聞 龍馬伝』で松岡氏はこんな時代です。天誅を指揮した武市半平太、実行犯だった中岡慎太郎。ふたりも殺人という重い十字架を背負って生きました。龍馬ひとり、オプティミスト[楽天家・楽観主義者]、平和主義者でいるわけにはいかんのです。と、龍馬による人斬りを断定的な事実としてのべている。

 先記した『海舟日記』のほかに龍馬が人斬りに関わったかとみられる資料には、丹羽精蔵の略伝など真偽不明・眉唾モノもまだいくつかはあるが、ソレらは裏付けや史実性に乏しく、あきらかに創作とみえるものもふくんでいるため、あと信頼のおける筋としては海援隊士山本龍二(関義臣)による懐旧談くらいになるだろう。

山本龍二(関義臣)

●「海援隊の回顧(関義臣懐旧談)」(『坂本龍馬全集』)

 其の部下を御すること、頗る厳正で、同志中に、人の妻を犯したものがあれば、必ず割腹させる。水夫頭の三吉なるものが、暴行を働いた時など、彼れは直ちに斬って捨てた。其威信は、恰も大諸侯の如き観があった。

 松岡氏は上掲につき義臣が晩年のうえ、講談師[伊藤痴遊]が書いたものですから今ひとつ信がおけないのですがと前置いたうえで(記者による改竄は当時珍しくないだけに斯く前置くのだろう)、これをそのままうけとれば、少なくとも一人以上が切腹、一人が斬殺となりますと解す。

 割腹斬り捨てがべつなものとして区別されるのは、刑としてみた名誉性の点からも理解できるが、山本の話しざまでは水夫頭云々以下のくだりが前文の具体的説明ともとれうる。後文の暴行が前文人の妻を犯すことに対応しており、後文斬り捨てと前文割腹もこの場合は大雑把に同義ともみえる。

 いづれにせよ姦通は、江戸中期からの公事方御定書(密通御仕置之事密通之男女共夫殺候ハゝ無構)はもちろん、明治三年(1870年)の新律綱領(殺死姦夫律、本夫、姦所に於て親ら姦夫姦婦を獲て即時に殺す者は論ずる事勿れ)、明治十三年の旧刑法(殺傷ニ關スル宥恕及ヒ不論罪本夫其妻ノ姦通ヲ覺知シ姦所ニ於テ直チニ姦夫又ハ姦婦ヲ殺傷シタル者ハ其罪ヲ宥恕ス)にいたるまで、紛れなき場合や現行犯にはかぎるものの、夫による殺害まで許容された社会通念や徳義にも悖る重罪である。
 龍馬はこの点で夫の例にはあたるまいが、海援隊約規に妄謬害ヲ引ニ至テハ隊長其死活ヲ制スルモ亦許スと規程する以上、この件が仮に事実であるにしても、暗殺や所謂殺人罪と同列にはあつかえない。当時の価値観や法規的にみても批難されるすじあいではないだろう。

 では問題の岡田星之助一件だが、既記のほか略伝などの記述以上に私はこの人物について詳しい資料を読んだことがない。『殉難録稿』を下敷きに簡潔にまとめられている『日本人名大事典』には

オカダホシノスケ 岡田星之助(平凡社『日本人名大事典』)

 幕末の志士。因幡國鳥取の人。夙に勤王の志厚く、報効の道を志し、郷里を出でて江戸に至り、鳥取藩士千葉十太郎の門に入りて県道を學び、且つ諸藩の士と交を結びて國事に盡す。たまたま一夕途土に於て人のために殺さる。(一説に土州人と事を論じ遂にこれがために斬らるろと)。

とみえる程度で、これに私がつけくわえられる情報といえば『玄武館出席大概』を根拠に「龍馬と岡田星之助は同時期の同門だったみたい」といえることくらいだろう。

 以上のように『海舟日記』の記述と略伝からえられる状況証拠しかなく断定はしないが、龍馬・近藤長次郎・新宮馬之助・岡田某・黒木小太郎らの一団(あるいはいづれか)によってこの岡田星之助一件は実行された可能性がたかい。
 ただ、曲がりなりにも本来秩序を維持すべき体制側の人間である海舟にたいし、事前に報知をくわえ、さらに内諾(すくなくとも黙許以上)をうけているなどは殊に異質で、単純な暗殺ともやや事情はことなりそうだ。

 この点かんがみると岡田星之助の悪意が、これを日記に記した海舟本人と無関係とはかんがえにくく、本件は後難(ありていにいえば岡田星之助による海舟暗殺など)を危惧し、龍馬らが先手をうったという事件でもあったろうか。岡田星之助の人物像が不明確ゆえ、両者ともその内実とした動機がみえてこない。

 ちなみに龍馬は慶応二年(1866年)一二月四日付の書簡で黒木小太郎につき千葉十太郎の門人にて、真剣勝負之時平日之稽古と違ハず人是をおどろくと少々気になることをのべている。この真剣勝負之時という感想はつまるところ、岡田星之助一件における黒木のはたらきについて述べたものではないだろうか。
 黒木は岡田星之助とおなじ鳥取藩の出身で、龍馬とのかかわりが史料より確認できるのは先掲『海舟日記』の条からである。おそらく『海舟日記』文久三年一月九日条因州の邸に到る。海軍の事、并びに警衛の大体を論ず。御同人の臣数輩、我門に入ることを談ぜられる。を契機に二人は知りあい、かつ事件の種子もここに胚胎したものかと憶測する。龍馬は海舟らの海軍構想に共鳴し、有志の糾合につとめていた時分である。
 このことは黒木に岡田星之助の一件以外、史料上他者をまじえて真剣をふるいうる明確な機会がみらないためそう思うのだが、真剣勝負との形容にはなにやら果たし合いめいたものも感じるさせる。同藩出身でなおかつ同門というつながりから推して、岡田星之助の悪意を察知しえる立場に一同中もっとも近いのはまず彼だろう。

 史料から龍馬が非合法またはソレにちかいかたちで人斬りにかかわったかと見られるものは、以上のとおり事情もかなり特殊そうな、岡田星之助の一件があるだけだろう。

 龍馬は政治手段としてテロリズムは好まないようで、個人的な理由でもってコレをおこなった形跡もみられない。新選組や大藤太郎とのいざこざが話題としてあがる楢崎龍の回顧譚(『千里駒後日譚拾遺』・『反魂香』)や寺田屋遭難時の龍馬の行動を対照するかぎり、むしろ無益な斬りあいは極力こちら避けているようにすら伺える。
 この「つまらない斬り合いはしない」とでも言いたげな姿勢には、池内蔵太にむかってもふつまららぬ戦ハをこすまい、つまらぬ事にて死ぬまいと約束した心境にもつながろう。

 ただ龍馬もときによっては戦わなかればならない一種の矜持や覚悟のようなものはもっていたようで、龍馬がその小刀に脇差でなく短刀を所持しているのは、自身の習得した和術(柔術)を活かすための選択であろう(と私は推測している)し、水戸の甲宗助から尋常の決闘をいどまれたさいにはこれに応諾をなし、陸奥陽之助との会話では議論も議論なれども最後の覚悟は腕力により、これに次ぐに死をもってせざるべからずと信ずるものと語ったりもしている。

 このへんの事情は、慶応三年(1867年)大政奉還運動における龍馬のスタンスをみれば、おのずと了解できそうな言説ではある。

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主要参考資料
伯爵陸奥宗光遺稿陸奥廣吉岩波書店
氷川清話 講談社学術文庫江藤淳・松浦玲講談社
坂本龍馬 海援隊始末記 公文庫平尾道雄中央公論新社
定本坂本龍馬伝 青い航跡松岡司新人物往来社
異聞・珍聞 龍馬伝松岡司新人物往来社
龍馬のすべて平尾道雄高知新聞企業
坂本龍馬全集 増補四訂版宮地佐一郎光風社出版
勝海舟全集(18)海舟日記1勝部真長・松本三之介・大口勇次郎勁草書房
日本人名大事典(第1巻)ア〜オ 平凡社
清河八郎小山松勝一郎新人物往来社

(平成二二年二月六日識/平成二二年二月九日訂)

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