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坂本龍馬の目録

文久二年〜元治元年

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文久二年の潜伏〜地下潜行〜


 さきの項でもふれたように、下関で沢村惣之丞とわかれた龍馬は一人九州へわたった。

 伝記はこの点を、主に”河田小龍の感化による薩摩藩行き”として記述するが、当然視察は薩摩一藩にかぎったものとは考えにくく、他の雄藩や長崎など、九州各地をまわったであろうことは想像にかたくない。

 また、文久元年(1861年)から二年(1862年)春にかけておこなわれた龍馬自身の「剣術詮議」の例から推して、今回も武市半平太による文久元年西国探索と同様ないし相似ルートが想起される。

 伝記以外の異伝として『涙痕録』は脱藩後の動向について「宇和島より九州地に渡り更に転じて、長州に入り久坂玄瑞と謀る所あり、大阪に来りしなり」と伝えており、ほかにも四月には浪華にはいっていたとする『土藩坂本龍馬伝』の説や、三月に住吉へきていたという『勤王者調』の説がある。

 これら異伝にたいする見解としては、さきに別稿で述べた理由にもとづき、私的には「関雄之助口供之事」をある程度信用している立場上、その内容・記述とも矛盾しない、伝記資料にそって以後筆をすすめることにする。

 (『涙痕録』の説では移動行程が「関雄之助口供之事」と齟齬し、『土藩坂本龍馬伝』・『勤王者調』の両説では三田尻到着後の行動とすると、時間的にあわただしいかの観がある。
 両説にみえる大坂入りは、後述する『小原与一郎雑録』五月朔日条にもとづく誤伝ではなかろうか)

 九州歴遊から本州にもどり、さらに上国へとむかった龍馬は文久二年六月一一日、大坂へ到着。住吉大社の通夜堂にて一夜をすごし、参詣人のため眠りから覚め、退散したなんて話がつたわっている。

 その後、京都の沢村惣之丞、住吉の望月清平らと連絡をとり、上国の形勢や吉村虎太郎、吉田東洋暗殺後の諸情報を得、龍馬は即日京へとはいった。

 このさい龍馬は田中作吾(望月の使い)から東洋暗殺の容疑者として、自身がマークされていることを告げられる。なお東洋暗殺の容疑者という点で、龍馬についてあげられる史料には下記などがある(ちなみに吉田東洋が斬られたのは文久二年四月八日)。

●『安岡文助日記

[文久二年]四月八日 [安岡]嘉助、大石団蔵、那須信吾、坂本龍馬、亡命

●『小原与一郎雑記抄

[文久二年四月]一〇日 巷説に云、右狼藉[東洋暗殺]者は佐川殿[土佐藩家老佐川深尾家]藩中也と。又云、軽輩弐三人過日亡命之者立帰り来りて討つ共云。

●『小原与一郎雑録

一、五月朔日、御国元より下横目来候処、坂本良馬・大石団蔵・弘光銘之助、去る[四月]九日、別枝口を出、同廿八日頃大坂へ来り候趣、[中略]是は御国元にて御疑念相立候子細有之人也。

●『真覚寺日記

今日迄[文久二年四月二〇日]、吉田[東洋]を殺したる人、すべて知れず。[中略]近頃、本町の坂本某[龍馬]を始め、出奔せる者多けれども、吉田を打たるならんと疑ふべきは壱人もなし。

 情報の正誤、容疑の強弱は兎も角、所謂”重要参考人”の一人として、ひろく注意されていたことは伺える。

 もっとも、藩政府は既に那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助らを去る五月中旬、容疑者の最有力として特定しており、六月時点における龍馬にたいする探索は、いきおい暗殺者のソレというより脱藩者にたいするソレであったろうかと思われる。

●四月二六日 江戸留守居役より幕府老中宛 届出

 吉村虎太郎、大石団蔵、弘光銘之助、宮地儀蔵、坂本龍馬、沢村惣之丞。
 右名面之者共、土佐守領分に罷在候郷士、并庄屋、寺院等之家来に御座候處、三月上旬より四月上旬迄之中、銘々住所立出罷歸不申候。親族共心寄相尋候得共行衛不相知趣申出候に付、猶於其節取調候處、何れも土佐守領分致出奔候體に相見え候段、国許より申越候。此節極之儀に付、御内聞被成置候様仕度、右之段私より申上候。

 京都へはいった龍馬はここで江戸から土佐へ帰国途中の大石弥太郎に再会し面談。佩刀(拵)の不格好を怪しまれ「縁頭を売り、旅費に宛てたり」と答えたという話や、藩主の入京にさきだって宿舎候補の妙心寺へ検分におもむいたという話などがつたわっている。

 六月中旬から八月にかけて、龍馬は目下のところ、京坂周辺に暫く潜伏することにしたようで、伝記には「烏丸通四条上ル沢屋」なる処へ寓居した旨が伝えられるし、『愚菴筆記』七月二三日条には「龍馬に逢う、一円を贈る」と、大坂で樋口真吉に再会したことがみえている。

 「葉を隠すなら森の中」というように、人口のおおいところへ潜伏するのも解らんではないが、わざわざ藩邸の置かれる要地ちかくに潜居する選択自体、いささか奇異に感じないこともない。

 ただし、これも藩主入京にしたがう土佐勤王党同志たちと連絡のためと観れば、危険性という点では兎も角、龍馬の性格上、一応妥当ないし合理的な判断なのかもわからない。

 斯くして、大坂での麻疹流行にともない足どめを食らっていた藩主一行は、八月下旬にようやく入京をとげ、それと相前後するように龍馬は八月(日付不詳)、江戸へ下ることになる。

●『維新土佐勤王史

 同年[文久二年]八月、坂本は飄然として江戸に下り、彼の旧識なる鍛冶橋外桶町の千葉重太郎方に草蛙を解きぬ。

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(平成一八年一一月一八日識)

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