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坂本龍馬の目録

文久二年〜元治元年

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風笛離亭晩〜君は東に、我西に〜


 「関雄之助口供之事」によれば、文久二年の三月二九日、龍馬らは長州藩領周防国は三田尻に到着した。

 伝記によると、二人は下関の豪商白石正一郎方をたずね、そこで吉村虎太郎らの所在について、確認とったことになっている。一方、吉村と宮地宜蔵の両人は、岡藩尊攘派の領袖にして家老、小河弥右衛門上京の報にせっし、薩摩藩にいそぎ合流すべく三月二四日、すでに長州を発していた。

 この龍馬らの訪問は、他の伝記や年譜などにも記述されることだが、肝心の同時代史料『白石正一郎日記』に該当すべき箇所はない。ゆえにこの説は現在ほぼ否定されているものといっていい。

 五日間の差で吉村たちとかけ違った龍馬はここで、以下のような態度をしめす。

●『維新土佐勤王史

[龍馬と沢村惣之丞は]互に前途の方針を定めけるが、坂本今更に吉村の跡を逐ふも余りに面白からず、寧ろ九州諸藩目下の事情を探りて、後図を書すべく、又沢村は坂本の勧告により、京師公家の青侍に住み込みて、朝廷の模様を探るべしと、評議茲に一決して枕に就き、翌暁東と西とに手を分かちしは正に是れ「一声風笛離亭晩、君向瀟湘我向秦」の光景ならずや。
沢村惣之丞と東西に手を分つや、当時上国の風雲は已に吉村に先んぜられたり、寧ろ九州諸藩の現状を視察し、更に鹿児島城下に入り込みて、其の武力の根拠地を探らんと思ひ立ち、豊筑肥の山野を跋渉して、其の国境までは往きしも、当時浪士を排斥する藩是として、一も二もなく入国を拒絶さられぬ、蓋し坂本は嘗て画家河田小龍より、薩藩が夙に製鉄所を設け、盛に大砲などを鋳立つるを聞きしを以て、一たび其の実際を目撃せんと企てしものなるべし

 余談だが、うえでひく「一声風笛離亭晩、君向瀟湘我向秦」とは、唐代末期の詩人鄭谷の漢詩で「淮上與友人別」にみえる一節。河岸の駅亭で友とのわかれをうたった詩(ただし原文は「一声風笛離亭晩」ではなく「数声風笛離亭晩」である)。

 上記によると、龍馬は「今更に吉村の跡を逐ふも余りに面白からず」、「上国の風雲は已に吉村に先んぜられたり」と、かなり行き当たりばったりな理由でもって薩摩藩との合流とりやめた。また上京する沢村にたいしては「朝廷の模様を探るべし」として、挙兵計画には参加せず、事態の静観を促しているようにもみてとれる。

 こうもあっさり引き下がるところをみると、当初から薩摩藩に合流する意図があって脱藩をとげたのかも疑問だ。

 では、この薩摩藩の上洛(表向きは江戸参勤だが)について、龍馬はどのような観察をしていたのか。それには供する史料がない以上、安易なこともいえないが、沢村の土佐帰国時における情報がまず、その観察および行動を決する一大要因にはなっていたことだろう。

 沢村が土佐へむけて出立した三月一七日、この時点における長州の情勢認識としては長州藩士土屋矢之助(号:蕭海)の書簡が一部参考になる。

 下記書簡は薩摩藩の意気軒昂ぶりをうたい、あわせて彼らの「幕府征夷大将軍の任は落職致させ、諸候同然に致し度くとの議論もこれある由」という倒幕的意向までつたえている。

●土屋矢之助書簡

薩摩藩義挙、弥増盛んの由、火輪船は多分[三月]一八日に着、和泉守[島津久光]着次第、五百人にて火輪船へ乗船。此他二三百人、追々白石[正一郎]方へ来るよし。小松帯刀は和泉守同船、大守公[島津茂久]、喜入摂津は厳重守国にて、更に動揺これ無き由。其の根策は筑前人平野[二郎国臣]の説によれり。然れども全く以て幕府討滅には到らず、矢張在し置き候由。
[中略]
岡藩は君公闇弱なれども家老[小河弥右衛門]以下は皆々大奮起の由。数人出奔も知て知らぬ振を致し、其儘捨て置き申候様子。平野も一八日には米藩人[久留米藩人]同船にて上坂、潜伏致し候由。森山[新蔵]の説には皇帝、其儘大内に守護し、已む無く二条城に御幸との計策の由。幕府、征夷大将軍の任は落職致させ、諸侯同然に致し度との議論もこれ有る由。何分此度の儀は正々堂々、妙と存ぜられ候。

 また『江月斎日乗』によると、薩摩本国へ探索にでていた来原良蔵(おなじく長州藩士)も一六日に帰国し、久坂玄瑞はこれに面談。これらの影響下にある沢村は翌日此度の事情を其同志に篤と報ずるため一応帰国することになる。

 このさい来原が探知しえた薩摩情勢については具体的記述もなく詳らかでないが、薩摩藩内にも挙兵に賛成する者(代表的な人物に有馬新七など)と賛成せざる者(同じく大久保一蔵など)の両派があることぐらい、当然察しえたものと思う。

 仮に察しえなかったにしても、政治上の問題として”倒幕”ないし”討幕”が真剣に議論された慶応の末期、当時龍馬のとったある意味現実的な慎重姿勢に思いをはせると、この幕威がいまだ盛んな文久二年の春、龍馬が一部激派のとなえる挙兵計画に実現性・成功性ありと観たかどうかは、おおいに疑を有するところだ。

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 文久二年春ごろ、土佐勤王党の流に属しながら藩を脱した者の数、それ片手ではたりない。吉村虎太郎、坂本龍馬、那須信吾、他の人々にせよ、以後の行動には自ずと、その人個人々々の個性が見え隠れする。

(平成十八年七月二二日記/同一〇月三一日訂)

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