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坂本龍馬の目録

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龍馬と海舟の出会い〜文久ニ年秋冬〜


 坂本龍馬と勝海舟、両者の師弟関係は二人が幕末期の代表的人物ということもあって日本史のなかでも殊に著名の部類に入るだろう。二人の出会いについて龍馬最初の伝記ともされる『汗血千里駒』(明治十六年-1883年-)は龍馬も亦小千葉[千葉重太郎]の紹介により始めて勝氏に対面したとする。

 一方の当事者勝海舟も『追賛一話』(明治二十三年-1890年-)で阪本氏曾て千葉周太郎[原文ママ]を伴い余を氷川の僑居に訪えりと先行する『汗血千里駒』を裏書きするような追想をしており、一見この辺の事情はゆるぎないもののように思えるのだが、松平春嶽の或日朝、登城の前[中略]坂本、岡本[健三郎]両士、余に言う。勝、横井[小楠]に面晤仕度、侯の紹介を請求す。余諾して勝、横井への添書を両士に与えたりという回顧 [1]明治十九年(1886年)十二月十一日付土方久元宛松平春嶽書簡。 もあって、二人は春嶽の紹介状により引き合ったとされることが多い。

 この記憶によると龍馬が春嶽を訪ねたのは文久二年(1862年)七月のことで場所は江戸常盤橋にある福井藩の上屋敷。側近の中根雪江が応対後、春嶽みずから面会にあたった。二人は勤王攘夷の志と懇篤な忠告を春嶽に吐露し、感じ入った春嶽は二人の乞いにまかせ状を与えたものという。

 しかし松浦玲氏の指摘するところによると春嶽が上屋敷に入ったのは閏八月二十三日 [2]続再夢紀事』同日条「公、霊岸島の別邸より常磐橋の本邸に転居せらる」。 のことで、横井小楠への紹介状についても小楠は越前藩邸内に起居して日夜春嶽を補佐していたのだから添書で紹介とはいささかオーバーなことだと気にならなくもない[3]松浦玲『検証・龍馬伝説』「海舟と龍馬」P128。 と述べている。

 またこちらも松浦氏が最初に指摘するところだが、福井藩の公用記録ともいうべき『続再夢紀事』に龍馬の名がみえる最初は文久二年十二月五日条の帰邸後 [4]注1の書簡にみえる「或日朝、登城の前」とは相違する。 土藩間崎哲馬、坂下龍馬、近藤昶次郎来る。公[春嶽]対面せられしに大坂近海の海防策を申立たりきであり、同時に海舟の日記からは気になるところ[5]松浦玲『検証・龍馬伝説』「海舟と龍馬」P129。 として十二月九日条の此夜、有志両三輩来訪、形勢の議論ありをあげている。後続の十一日条 [6]海舟日記』文久二年十二月十一日条「当夜、門生門田為之助、近藤昶次郎来る。興国の愚意を談ず」。 には土佐藩士門田為之助と近藤長次郎が突然門下生として初出するため、龍馬の入門時期もひるがえって案外十二月九日あたりだったかもしれないと推論のかたち [7]松浦玲『検証・龍馬伝説』「海舟と龍馬」P130。この場合「有志両三輩」とは龍馬・為之助・長次郎が想定されることになるが、同時にこの九日入門という仮定を「こうだったに違いないと主張しているわけではない」とのこと。 で見解をしめす。

海舟日記 原本 二十五冊揃(『勝海舟全集18』勁草書房より)

 斯く松浦氏が推論にとどめるのは海舟は政治的には天才だけれども、記録者としては極端に御粗末である。半紙にメモしては積み重ねる癖があり、時々整理するのだが一枚一枚に日付を入れてないことが多くて日を間違えるのである[8]松浦玲『坂本龍馬 岩波新書』P24。 という海舟日記がもつ史料の性格に由来する。つまり記録として丹念なものではなく[9]松浦玲『勝海舟』筑摩書房P788。 日記に龍馬の名が記載されなかったからといってそれは交渉がなかったことを意味するものではない[10]松浦玲『勝海舟』筑摩書房P788-789。 のだ。そのせいか時期の特定はせず、文久二年秋冬ごろと広い範囲で両者の出会いを想定するのが現在は大勢のように思われる [11]松浦氏のほかでは松岡司『定本坂本龍馬伝 青い航跡』・佐々木克『坂本龍馬とその時代』なども日時を特定してあつかってはいない。

 ただ菊地明氏は、既記の松浦氏の指摘を受けてだろう、入門時期を十二月九日となかば断定的に自著であつかうことが多い [12]菊地明,伊東成郎,山村竜也『坂本龍馬101の謎』・菊地明,山村竜也『坂本龍馬日記 上』・菊地明『追跡!坂本龍馬』・菊地明『坂本龍馬進化論』など。 。その場合、史料と齟齬をきたす春嶽と海舟の回顧部分を、それぞれ他の記録にみえる事実と記憶を混同したことによる間違いだと合理化して説明する。

 例として『続再夢紀事』文久二年十二月五日条にみえる帰邸後と春嶽の或日朝、登城の前という記憶の齟齬を龍馬訪問日の翌日にあたる土佐藩士武市半平太の訪問時間帯 [13]続再夢紀事』文久二年十二月六日条「今朝、登城前土藩武市半平太来る」。 にくい違いの原因をもとめ、 土藩間崎哲馬、坂下龍馬、近藤昶次郎坂本、岡本両士という齟齬を慶応三年冬における龍馬の福井訪問時の同行者 [14]丁卯日記』慶応三年(1867年)十月二十八日条「土州藩才谷梅太郎、岡本健次郎来着。老侯之御直書差出之」。 と、海舟が為之助や長次郎ではなく同伴者を"千葉重太郎"するのを『海舟日記』にみえる他日の同行例 [15]海舟日記』文久二年十二月二十九日条「千葉十太郎来る。同時、坂下龍馬子来る。京師の事を聞く」。 とを混同したためなど [16]菊地明『坂本龍馬進化論』「第4章 勝海舟との出会い」。 と解する。

 ちなみに中根の執務記録『枢密備忘』でも龍馬との接触が確認できるのは文久二年十二月になってからなので、福井藩との縁をこの月からと想定するのに違和感は少ないが、はたしてそれが海舟の例も同様かとなると春嶽の記憶にいささか怪しい点もあるだけに心ともないところではある。。

 いづれにしろ文久二年秋冬ごろ [17]私は未見ながら、木原適處自らの履歴を基礎資料とする武田正規『木原適處と神機隊の人びと』(昭和六十一年-1986年-)によると、龍馬は文久二年十月初めごろに勝塾へ入門したらしい(参考「龍馬の勝海舟への入門時期について」)。木原適處の記憶・履歴に間違いがなれけば、坂崎紫瀾が史料不明のまま「坂本龍馬海援隊始末」に伝える「文久二年壬戊十月龍馬千葉重太郎と共に勝安房守義邦を訪い初て勝の門弟となる」の時期記述が正解ということになる。 龍馬は江戸赤坂氷川町の勝屋敷で海舟と会見をした。そのときの模様を海舟は以下のように思いかえす。

追賛一話

 時に半夜、余[海舟]為に我邦海軍の興起せざる所以を談じ媚々止まず。氏[龍馬]大に会する所あるが如く、余に語て曰、今宵の事、密に期する所あり、若し公の説如何に依りては公を刺んと決したり、今や公の説を聴き大に余の固陋を恥づ、請う是よりして公の門下生と為らんと。爾来、氏意を海軍に致す寧日なし。

氷川清話

 坂本龍馬。彼れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが沈着ついてな、なんとなく冒しがたい威厳があって、よい男だったよ。

 龍馬が海舟を殺すつもりだったという点は、マンガ・小説・ドラマなどのフィクションであればいざ知らず、龍馬の足跡や交友関係から大抵は海舟の"法螺"や"誇張"の類いとして割り引かれ、そのままに受けとられることは少ない。

 これは個人的な憶測にしかならないが海舟がわざわざ言を重ねる事実からして、当の海舟本人は「俺を殺しに来たやつ」と龍馬のことを空言ではなく、真実そう認識していたのだと思われる。斯く考えるのは幕臣大久保一翁もまたこれに似た体験しているが故である。

千頭清臣『坂本龍馬』 第二版の増補

 「坂本は最初余[一翁]の家に同志四五人を伴い来りて、余に 向かって曰うに『鎖攘の事、幕府因循して決せず。今僕に決死の同志四五十人あり。相率いなば在横浜の洋館を焼くを得べし』と。余は之を聞いて呵々と打笑いたり。すると忽ちにして一人、顔色勃然として怒り、急に刀鞘を握りたり。坂本は扇を以て其手を打ち、叱して曰く『無礼すな』と。更に坂本、余に向かって曰う『高教を辱くするは僕の願う所なり、然るに尊公笑いを以て人に接するは如何』と。余深く之を謝し、更に曰う『如何に幕府衰えたりと雖も其部下を駆らば夷館を焼き払うが如きは易々たる事のみ。されど之を挙行すればとて鎖攘の目的を達し得べき乎。これ大に考慮すべき所ならずや』と。坂本拝謝して曰う。『高論に接して迷夢頓に一掃す』と。而して急に辞して去りたり。余思う。坂本の豁然大悟したるは是れ真なるか、容易に解し得るべからず。今にして之を思うも、些か底気味悪し。蓋し坂本は或は自身に於ては、とくに鎖攘説の非なるを知るも同志の玩陋なるを開発するの一策として余の口を藉たるには非ざるか」と。

 つまり海舟のさいにもポーズとして同じようなことがあったのではないだろうか。

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  1. mark_utarnhotyu.png 明治十九年(1886年)十二月十一日付土方久元宛松平春嶽書簡。
  2. mark_utarnhotyu.png続再夢紀事』同日条公、霊岸島の別邸より常磐橋の本邸に転居せらる
  3. mark_utarnhotyu.png 松浦玲『検証・龍馬伝説』「海舟と龍馬」P128。
  4. mark_utarnhotyu.png 注1の書簡にみえる或日朝、登城の前とは相違する。
  5. mark_utarnhotyu.png 松浦玲『検証・龍馬伝説』「海舟と龍馬」P129。
  6. mark_utarnhotyu.png海舟日記』文久二年十二月十一日条当夜、門生門田為之助、近藤昶次郎来る。興国の愚意を談ず
  7. mark_utarnhotyu.png 松浦玲『検証・龍馬伝説』「海舟と龍馬」P130。この場合有志両三輩とは龍馬・為之助・長次郎が想定されることになるが、同時にこの九日入門という仮定をこうだったに違いないと主張しているわけではないとのこと。
  8. mark_utarnhotyu.png 松浦玲『坂本龍馬 岩波新書』P24。
  9. mark_utarnhotyu.png 松浦玲『勝海舟』筑摩書房P788。
  10. mark_utarnhotyu.png 松浦玲『勝海舟』筑摩書房P788-789。
  11. mark_utarnhotyu.png 松浦氏のほかでは松岡司『定本坂本龍馬伝 青い航跡』・佐々木克『坂本龍馬とその時代』なども日時を特定してあつかってはいない。
  12. mark_utarnhotyu.png 菊地明,伊東成郎,山村竜也『坂本龍馬101の謎』・菊地明,山村竜也『坂本龍馬日記 上』・菊地明『追跡!坂本龍馬』・菊地明『坂本龍馬進化論』など。
  13. mark_utarnhotyu.png続再夢紀事』文久二年十二月六日条今朝、登城前土藩武市半平太来る
  14. mark_utarnhotyu.png丁卯日記』慶応三年(1867年)十月二十八日条土州藩才谷梅太郎[龍馬の変名]、岡本健次郎[原文ママ]来着。老侯[山内容堂]之御直書差出之
  15. mark_utarnhotyu.png海舟日記』文久二年十二月二十九日条千葉十太郎来る。同時、坂下龍馬子来る。京師の事を聞く
  16. mark_utarnhotyu.png 菊地明『坂本龍馬進化論』「第4章 勝海舟との出会い」。
  17. mark_utarnhotyu.png 私は未見ながら、木原適處自らの履歴を基礎資料とする武田正規『木原適處と神機隊の人びと』(昭和六十一年-1986年-)によると、龍馬は文久二年十月初めごろに勝塾へ入門したらしい(参考「龍馬の勝海舟への入門時期について」)。木原適處の記憶・履歴に間違いがなれけば、坂崎紫瀾が史料不明のまま「坂本龍馬海援隊始末」に伝える文久二年壬戊十月龍馬千葉重太郎と共に勝安房守義邦を訪い初て勝の門弟となるの時期記述が正解ということになる。

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主要参考資料
汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝 岩波文庫坂崎紫瀾,林原純生岩波書店
坂本龍馬 岩波新書松浦玲岩波書店
再夢紀事・丁卯日記 日本史籍協会叢書中根雪江,日本史籍協会東京大学出版会
坂本龍馬関係文書(2)日本史籍協会叢書日本史籍協会東京大学出版会
坂本龍馬千頭清臣新人物往来社
坂本龍馬進化論菊地明新人物往来社
勝海舟松浦玲筑摩書房
検証・龍馬伝説松浦玲論創社
坂本龍馬全集 増補四訂版宮地佐一郎光風社出版
勝海舟全集(18)海舟日記勝安芳,勝部真長,松本三之介,大口勇次郎 勁草書房
続再夢紀事(1)日本史籍協会叢書中根雪江,日本史籍協会東京大学出版会
知られざる幕末維新 福井藩士の記録 パンフレット福井県文書館福井県文書館

(平成二八年一〇月三〇日識/平成二八年一一月二七日リンク追加)

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