文久二年三月二四日、河野万寿弥に高知西方朝倉村まで見送られた龍馬・沢村惣之丞一行は、まず藩境へ向かうべく街道を西へと前進する。
所謂「龍馬脱藩の道」には諸説あり、「関雄之助口供之事」をひろく世に紹介した村上恒夫氏によると、氏の「知る限りでも五つくらいある」らしい。
しかし、諸説あるといっても口碑や推測に頼るものばかりで、記録としてその行程がつたわっているわけではない。とりあえず、このさい檮原まで至るおおまかなルートとして、次の二説が比較的著名だろう。
上段の日高方面ルートは高知から檮原にいたる当時の最も一般的な街道といい、下段高岡方面ルートは須崎経由で考えれる檮原へのルート、峠や坂道といった勾配も日高方面ルートより楽であるという。
日高方面ルート途中の朽木峠では、土佐勤王党と気脈をつうじる片岡孫五郎の案内をうけ、その峠をこえたという伝承があり、高岡方面ルート途中の須崎には、同地で龍馬を目撃したとの談話(別稿で引用済みの安田たまきの証言)が伝わっている。
近年は安田たまきの証言を重要視し、須崎→朽木峠→葉山というルートも提唱されているようだが、現時点では所詮結論のでる話ではないだろう。
『真覚寺日記』・『小松藩会所日記』などによると、出立当日の天候はあいにくの雨で、翌二五日は晴。そんな天気のなか檮原に到着した龍馬一行は、土佐勤王党の同志でもある那須俊平・信吾親子の家へ厄介になった。
●那須信吾より那須俊平宛書簡
当春[文久二年春]、坂本龍馬同行に而、内にて宿り、亡命仕候沢村惣之丞と申は、城下寺若党に而候。
当時、那須家で女中をつとめたという立道久代は、このときの出来事として「ある日坂本龍馬という人が、もう一人の侍と来て泊まり、夜どおし酒の酌をさせられ、恥ずかしくて困った」との口碑をつたえている。
このてん「高知から檮原まで移動したばかりで、明日はいよいよ藩境を越えようかという前日に、わざわざ夜通しで酒なんぞ飲むものだろうか」という疑問も個人的にはわくが、脱藩をまえに気分が高揚していたのかも解らないので、ここでは口伝ままに記しておく。
とりあえず、この文面からは脱藩前に似つかわしくない、陽気な酒だったかとも推測はできる。
●関雄之助口供之事
うえは沢村惣之丞(関雄之助は沢村の変名)が後年に口述したという脱藩行程の覚え書き。龍馬の義兄 高松順蔵(小埜は号。高松太郎の父)が明治六年に書き写したもので、現在に伝わるのは明治六年作成のソレを、さらに昭和四十三年に書き写したものという。
原本所在が不明な点や写しの写しである点などから、良質な史料とは言いがたい面もあるが、前記那須信吾書簡とも内容的には矛盾しないため、私は大旨信用して良いのではないかと考えている。
無論「関雄之助口供之事」が那須信吾書簡を知ったうえで、その内容をもり込んだとも考えられるが、書写したという昭和四三年当時、さきの那須信吾書簡自体、容易に読める状況にはないので、一応そのむねを考慮したい(青山文庫後援会刊行の『那須信吾書簡』は昭和五十二年に発刊)。
して、「関雄之助口供之事」に記される行程をあらためて書き直すと以下のとおり。
ちなみに、このときのこととして龍馬は大洲で「大洲の景色は美しい。女はきれいだ。しかし、侍が持っている刀はなまくらばかりだ」と語ったという。
これは、脱藩まえに姉から業物を贈られ、意気軒昂ゆえにでた発言とも思えるが、舟で大洲を素通りしたていどで、刀の善し悪しまで推しはかれるとは思えない(拵なら兎も角)。愛刀家 坂本龍馬らしからざる発言だけに、言の真偽については疑問がのこる。
四国における最終地として二七日に到着した金兵衛宅は、沢村が吉村虎太郎らとさきに脱藩したさいお世話になった場所である。同家は代々「富屋」との屋号で紺屋業をいとなんでいたそうで、今にのこされる吉村虎太郎の書簡からその親しさが知れる。
龍馬らはここから長州藩へむけ出航、二日間の旅程をようしたあと周防国は三田尻に到着した。
なお、もう一つの説として参考までに写真家 前田英徳氏(坂本栄の墓碑を発見したことでも知られる)のおす坂本龍馬脱藩の道を以下に記そう。史料的に「関雄之助口供之事」に不安点がある以上、一考の余地はあるだろう。
(平成一八年三月一八日識)