た行
其之一
あれ[半平太]は正論家である。正々堂々として乗り出すことには賛成するが、権道によって事を成すということは何時も嫌っている
高杉晋作
幼年の節より只今[安政五年]まで間断なく出精つかまつり、殊に取立方においても深切に世話方ゆき届き、私ども一同相競いますます盛にあいなり、只今まで入門の者、都而百二十人あまりもござ候。はたまた桃井[春蔵]塾中においては修行方、べっして際立ち粉骨を尽くし候をもって新弟子の身分にござ候えども塾監になど申し付けられ、そのうえ流儀の皆伝などさし免じられ候段、ひっきょう師家の見込みあずかり候わけと推察つかまつり候。かつ平常わたくしども見および申し候ところ老祖母へ仕方よろしく、もし病気などの節は側相離れもうさず。じつに寝食を安んぜず看病方つかまつり候儀に、しかして内外ともにきっと私どもの亀鏡[手本の意]とあいなり候
武市道場 惣弟子
非常に不器用な人で、撃剣は朝から晩まで遣ったが、あるとき義太夫を稽古して唸りました処、それはそれは下手の骨頂で、節も文句も滅茶々々でした
武市富
承り候えば吹山[半平太]にも御使者にて[土佐へ]帰り候よし。この儀、薩よりの策に出候わんかと懸念つかまつり候。その故は吹山おり候ては薩の密計おこなわれず、宮様方への出入りも不自由、かつ時勢示談にも差し障り候かどもこれ有るべくにつき、しかしてはその策をなし候ことかな遠察たてまつり候
田所嶋太郎・千屋菊次郎ら連名書簡
我藩[薩摩藩]この如き人物なし。ただ共に比すべきものは大島の流人、大島三左衛門[西郷隆盛]のみ
田中新兵衛
武市半平太は[中略]土佐の藩論をまとめ勤王倒幕に導こうとした。したがって、その苦心はなみ大抵ではなかった。半平太は白札格で士分は最下位の家柄、身の丈六尺近く、深沈にして大度、容易に喜怒を顔色に表わさない。江戸三大道場の一つ、蜊河岸の桃井塾において鏡心明智流を学んだもので、塾頭をつとめた腕前である。[中略]薩長はじめ諸藩の勤王党と提携して事を起こすの際、土佐を代表するのは何といっても武市である
土佐勤王党の一大巨星
『どうだろうか、御藩の久坂氏と弊藩の武市氏と会談するように、とり計らって下さるまいか、そうすると倒幕運動は更に一進展を見るに相違ない』大石[弥太郎]が長藩の佐々木[男也]にこういう意見を申しでた。『それはよかろう、さっそく拙者の方で日取りをきめてお知らせする』。佐々木も即座に賛成した。そこで両巨頭の会見が行われた。同志によって、荒ごなしがしてある上に、両者とも一藩を代表するに足る颯爽たる人物である。一度、会っただけですでにもう十年の知己のように両心相許すことになった。久坂が武市の器量に打ち込んでいたのは、薩摩の樺山三円に次のように語っていることでも分かる。『土佐の武市半平太は国士無双ともいうべき人物である』
彼[吉田東洋]は武市等を初めから天下の大義に通ぜざる剣客無頼の徒であると見ているため、相手にはしなかった
武市の炯眼、驚くべく
京都では武市半平太とともに藩の双璧
武市などは京都滞在中は事ごとに相談にあずかっていた
もし私どものように脱藩すれば、彼[半平太]の一命も安全だったかも知れないが、初一念を貫徹するため断乎として国もとに止まり勤王同志の先駆けとなって、これを指揮していたのだ
田中顕助
薩長土三藩の中にても天帝には、土州を一番の御見込みにて御依頼遊ばされ候事、有志一同感涙にむせび、なおさら決心憤発、墨龍[半平太]などは三藩第一の謀主と相成り、天下に名をとどろかし申し候
千屋菊次郎
(平成某年某月某日識)