横井小楠
長州征伐に賛同する横井小楠を評し
「世人皆、子[横井小楠]を称して海内の大家とす。我もまた常に渇仰敬慕せり。然るに今日の論説の如き庸人にたも望まざる所なる」
「当時[慶応二年]天下の人物と云うは[中略]肥後に横井平四郎」
国島六左衛門
国島が自刃した現場に駆けつけ
「武士たる者、己が所存が成り立たねば死するのほかはない。ああ、一知己を失った」
神保修理
「長崎にて会津の家老神保修理に面会。会津にはおもいがけぬ人物にてありたり」
大隈八太郎
「龍馬曰く『近頃、貴藩大隈八太郎に面会したり。弁舌さわやかにして議論また聞くべし。有為の人物たるに相違なしと認めたり。然れども天下の事は何事にても口舌をもって為し得べしと思い居るが如く見受けたり。僕等は数年、国家のために四方に奔走し、種々の艱難に出会し、議論も議論なれども最後の覚悟は腕力により、これに次ぐに死をもってせざるべからずと信ずるものなれども、彼人の胸裏には毫もかくの如き覚悟なきが如し。僕は学問なけれども敢えて聞く『唐土のある時代に敵軍、都近く推寄せ来るさい、数多の文官相集まりて種々軍評定して日を暮らし居たるに、その中の一武将は諸君は口をもって賊をうたむとす。我は手をもって賊をうつべしと嘲りたり』と。大隈も無事大平の時に代官あるいは留守居役の如き職務を勤めるには堪能の人なるべけれども、今日の如く国歩艱難の時代には到底有志家として、国事に奔走することは出来ざるべし』と言えり。これ龍馬が一場の座談なり。然れども今、余にしてこれを思うに大隈の生涯を通じ彼は議論の人にして行為の人に非ずというは実に適評なりと覚ゆ」
陸奥宗光
長谷部勘右衛門
「当時[慶応二年]天下の人物と云うは[中略]越前にては[中略]長谷部勘右衛門」
坂本権平
「ただ気の毒なるは兄さんなり。酒がすぎれば長命はできまい」
「御送つかわされ候吉行の刀、このごろ出京にも常に帯び仕り候[中略]私も兄の賜りなりとてホコリ候事にて御座候」
坂本乙女
「天下第一大荒くれ先生」
「乙大姉の名、諸国にあらわれおり候。龍馬より強いという評判なり」
「この龍[馬]がお仁王さまの御身をかしこみ尊ぶ所よくよく思たまえ」
「私一人にて五百人や七百人の人を引て、天下の御為いたすが甚だよろしく、おそれながらこれらの所には、乙様の御心もには少し心がおよぶまいかと存じ候」
「龍馬が常に云っていました。『おれは若い時、親に死別れてから乙女姉さんの世話になった成長ったので、親の恩より姉さんの恩が太い』ってね。大変姉さんと仲良しで何時でも長い長い手紙を寄こしましたが、兄さんにかくして書くので『龍馬にやる手紙を色男かなんかにやる様に、おれにかくさないでも宜かろう』と怒って居たそうです」
楢崎龍
坂本春猪
「菊目石の御君」
春猪をからうような手紙で
「お前は人から一歩もたして男という男は皆にげだすによりて気づかいも無し。また、やっくと心も随分たまかなれば何も気づかいはせぬけれども、これから先の心配々々、ちり取りにても掻き除けられず、鎌でも鍬でも払われず、随分々々せいだして長いお年を送りなよ。[中略]露の命は計られず。先々ご無事でお暮らしよ」
「ふぐの春猪様」
楢崎龍
「もと十分大家にて暮らし候ものゆえ、花いけ、香をたき茶の湯おしなどは致し候えども、一向炊ぎ奉公することは出来ず」
「まことに面白き女にて月琴をひき申し候。[中略]この女、乙大姉をして真の姉の様にあいたがり候。[中略]今の名は龍と申し、私に似ており候」
「げに[とてもの意]も珍しき人」
「今年[慶応二年]正月二三日夜の難にあいし時も、この龍女がおればこそ、龍馬の命は助かりたり」
「私妻は則ち、将作女なり。今年[慶応二年]廿六歳、父母の付けたる名龍、私がまた鞆とあらたむ」
「この龍馬をよく労りてくれるが国家ためにて、けして天下の国家のと云うことはいらぬ事と申聞之在候。それで日々、縫い物やはりもの致しおり候。その暇には自分にかけ候エリなどの縫いなど致しおり候。その暇には本を読むこといたせと申し聞かせ候。この頃、ピストル短砲は大分よく撃ち申し候。誠に妙な女にて候えども私の云うことよく聞き込み、また敵を見て白刃を恐るる事を知らぬ者にて」
千葉佐那
「薙刀順付は千葉[定吉]先生より越前老公へ上がり候人へ、御申し付けにて書きたるなり。この人はお佐那と言うなり。元は乙女と言いしなり。今年[文久三年]二十六歳になり候。馬によく乗り剣もよほど手づよく、薙刀も出来、力は並々の男子より強く、まず例えば家に昔おり候、ぎんと言う女の力量ばかりも御座候べし。顔かたち平井[加尾]より少しよし。十三弦の琴よくひき十四歳のとき皆伝いたし申し候よし。そして絵も描き申し候心ばえ大丈夫にて男子など及ばず。それにいたりて静かなる人なり。物数いわず、まあまあ今の平井、平井」
「千葉の娘のお佐那といってお転婆だったそうです親が剣道の指南番だったから御殿へも出入りしたものか一橋公の日記を盗み出して龍馬にくれたので、龍馬は徳家川の内幕をすっかり知ることが出来たそうです。『お佐那はおれのためにはずいぶん骨を折ってくれたがオレは何だか好かぬから取り合わなかった』と言っておりました」
「千葉周作の娘さな子は親に似ぬ淫奔女であったそうです。肩揚の跡のまだ鮮やかな時分から門弟の誰彼に心寄せて附文をしたり、あたりに人の居ない時は優男を捉えて口説いたり、いやもう箸にもかからぬ女で、それが美人ならば、師匠の眼をかすめても、時にあるいは花陰に眠る者もあるでしょうが、悪女の深情けとやらで我が侭で腕力が強くて、それでいて嫉妬深いものですから、皆が逃げ廻って居りました。ところが龍馬が周作の門弟になった時、早速附文をされたので龍馬も呆れ返って、なるだけ顔を合わせないようにしていました。後に同志の人々が集まった時に『いやもう私は天下に恐るる敵は無いが、彼女には閉口した』と、頭を掻いて苦笑したそうです」
楢崎龍
(平成某年某月某日識)