龍馬さんは、さいさい篠原街道を舟入川に沿うて東の方へ行きよった。肩を傾けて風を切るように意気揚々と歩く人じゃったが、道ばたで子どもがおるのを見かけると傍へ寄っていて頭をなでたり『早う太うなりよ』と声をかけたりしてかわいがった。そんで子どもらあは龍馬さんを慕うて、もぶり[まとわりの意]つきよった。才谷屋は高須・新木に領地があったからか、袋などをぶら下げて、あの辺りをよう歩きよった。龍馬さんはその時分、五台山におったことがあるのう。あしはそのころ山仕事もしよったきに五台山の山へもよう出かけたが山の中の一軒の家で龍馬さんは一人で、よう読書をしよったのう。あしは行きし戻りしによう見たもんじゃった
池元徳次
豪放不埒、これ龍馬の特質なり。到底、史人たるべからず。龍馬もし不惑の寿を得たらんには恐らくは薩の五代[友厚]、土の岩崎[弥太郎]たるべけん
[彰勲碑へ板垣が寄せた撰文碑]一介の武弁而して身を海南の素族に起し天下に周旋し王政復古の大業を翼賛し逐に刺客の難に斃れし坂本龍馬君の如きは、其功烈洵に千載に亘りて朽ちずと謂うべし
板垣の今日あるは偏に坂本先生の御陰様で御座います
板垣退助
顔に七陽の星が降っている人
伊藤九三
坂本龍馬は勝安房[安房守、海舟]の門人で、壮年有志の一個の傑出物であって、彼方へ説き、こなたへ説きして何処へ行っても容れられる方の人間であった。[中略]坂本が鹿児島の意をうけて来たのは、彼から説いたか、西郷[吉之助、隆盛]・大久保[一蔵、利通]から起ったか分からぬが、必定これでは連合して行かなければならぬというて、彼が西郷らのに説き、それが容れられて其の意を持って来たのが初めであろう
薩長の連合ということは全く最初は坂本の話から起ったのだ
坂本龍馬が西郷[吉之助、隆盛]などの趣意を受けてどうしても薩長合体しなければいかんということを持って来た。
伊藤博文
薩長連合の周旋の根本は坂本龍馬、石川誠之助[中岡慎太郎]である。この二人が薩長互いに相反目しておっては到底幕府の勢力を転覆して大政を朝廷に返すなどということは出来ぬという論であって、しきりに薩長のあいだを往来し漸々遊説したのである。それが薩長連合の原因となった。
井上馨
丈高く、黙々多く語らず、なんとなく人に敬慕されるようなところがあった
井上良馨
(平成某年某月某日識)