元来、土佐の王政復古論の筆頭は坂本龍馬だということになってはいるが、或は中岡慎太郎の方ではないかと自分は思っている。一寸ここで坂本と中岡の人物を評して見るなれば、中岡は後の板垣[退助]というところで、坂本は後藤[象二郎]という形である。中岡坂本両人共に[武市]瑞山の後継でニ重鎮であつた。ちょうど長州に例をとっていえば[吉田]松陰門下の久坂玄瑞・高杉東行というところである。人物の風格も似ていないではない
[いろは丸事件の談判に中島作太郎が選ばれたことを評し]人もあらうにこの青二才を大任に当たらせた所に坂本の眼識もあらうというもの。しかし中島の大功に酬うるに僅かに金百両をもってしたのには、我々も其の賞の余りに吝なるに驚いたが、後に到って考えて見れば、若い者に余り大金を持たせるのは何うせ善い事はないとの遠謀ある老婆心からであったろうと一層感心したのであつた。坂本の人物について、かつて板垣[退助]がこういうことをいった。『坂本が若し生きていたならば、或いは実業家となって、五代友厚の少し大きいのになつたらうョ』と、板垣にはまた板垣の見る所があったのだろう
中岡[慎太郎]は台閣の器であり、坂本は広野の猛獣であった。一は宰相の風があり、一は豪傑の面影があつた。此の二人を土佐が早くも失ったのは返す返すも惜しいことをしたものである
大江卓
[中岡慎太郎宛書簡中、薩長同盟の功労を評し]今回の御尽力、唯々弊藩の幸なるのみか是の一事にて天下後来の風潮相定り候儀につき、実は天下の幸福と申すべく、貴兄方の御功蹟顕著として宇宙に輝き候儀、誰かは感激いたさざらん
大村益次郎
[龍馬・中岡慎太郎の暗殺を伝える手紙で]坂本・中岡異変の儀に付き早々御示論被為下、実不堪遺憾次第奉候
大久保利通
[龍馬・中岡慎太郎式年祭における大山巌の祭文]頭を回せば幕府の末路外交事起り国威振はず、諸藩有志の士東奔西走、王事に鞅掌す就中、坂本龍馬、中岡慎太郎の二君は最も大義を明にして国勢を挽回せんことを謀り、我薩摩諸先輩と交際殊に浅からさりし。面して坂本君の寺田屋に寓するや一夕突然凶徒の乱入に逢ひ格闘創を蒙る時に予が亡兄彦八伏見の藩邸に在り。因て君を迎え之を保護せり、後幾くならずして二君は共に京師に入り不幸竟に奇禍に罹り志を齏らして地に入る。何の憾か之に加へん。想うに大政維新の基する所に君が長藩諸老と我薩藩諸老先輩との間に周旋を尽し其疑団を氷解し二藩協同国事に努むるも至らしめたるの労に因らずんばあらず。[中略]当時、勇壮活発の風采、今猶目前に在るが如しジに一言追慕の意を表す
大山巌
いつも無言のままぶらりと入ってきて、用談が終わると無言でかえって行く、一言の会釈もないし、ときには憎らしくみえた
岡本常之助妻女
(平成某年某月某日識)