[龍馬・中岡慎太郎の暗殺にふれ]海陸隊長一時に失したり。これ以後、才谷くらいの豪傑は土州には生じ申さず、上下泣涕の至りに堪らず候
八木彦三郎
龍馬さんは六尺豊かな大男で優男のように世情では伝えられていますが、背丈は中位で色も黒く、決してトント[美少年の意]の方ではありませんでした。髪は当時の若い侍の間に流行していた結い方とは違って、たしか総髪で、それが激しい撃剣修行のため縮れ上がっていました。刀はいつも短いのを、落し差しにしていましてちょっと見には差しているやら、いないやら判らぬ位でし、肩も撫で肩で、左肩が少し上がっていました。当時の若者の気風とは何処か違う所があってエラたがらず、威張らず、穏和しい人で、それでいて見識の高い人でした。[中略]龍馬さんが京都で殺されてから思い出したことですが或日のこと、道場から帰ったわたしの兄が母に向かって『きょう初めて見たが龍馬の左腕には五寸廻りもある大きなアザがある』と語ったが母はこれを聞くと『可愛そうに龍馬さんもそれでは剣難の相がある』と言って、その後母は非常にその事を心配していました果して龍馬さんは人手に倒れました。[中略]銅像の写真を見ましたが顔の工合といい、眉や刀の差し工合といい本人そっくりです
安田たまき
徳川氏の末にあたり薩長相疑う。土州名士坂本龍馬、以為らく、これ国家の利にあらざるなりと。すなわち二藩連合の説を建てて、これを薩藩の西郷吉之助に謀る
山県有朋
龍馬って、嫌な男でしたよ
山川須磨
志士と言うより寧ろ策士と言った方の質で、慶喜に大政返上を決意させたのも表面は後藤象二郎と言う事になっているが、その裏には坂本が居た
結城礼一郎
(平成某年某月某日識)