五十人組
有志義盟約条
一、死に後れざるは武士之本意に候得共、暴に近き之挙動これ無き様固相戒、終始義に当る之処置肝要たるべき事。
一、忠告切磋は同志第一之要務候間、礼譲深切を尽し、親睦之道を失うべからざる事。
一、好色は無論、戯にも遊妓等に近く間敷事。
一、多人数にて紀律これ無く而は混雑致すべくに付、伍長・総頭等を立置候間、事大小と無く頭長之差図を受くべき事。
右条々固相守、君上御為筋を相励むべく、若破盟背義之輩これ有るに於ては屹度法令相正し割腹打棄之作法に及ぶべき事。
文久二年壬戊冬一〇月 日
■結成〜解散
文久二年一〇月〜同年一二月頃
■総頭
宮川助五郎(文久二年一〇月〜同年一二月頃 在任)
田所嶋太郎(同上)
島村寿太郎(同上)
公文藤蔵(同上)
曽和伝左衛門
■備考
文久二年、藩主山内豊範の江戸参勤に随行できなかった土佐勤王党の同志たちが島村寿之助らの資金援助をえて結成した山内容堂の警護部隊。
当時、江戸では参勤交代の暖和をはかった松平春嶽や容堂らを恨み、その襲撃をなすという風説がしきりで、そのことを耳にした土佐に残留していた勤王党の面々は藩庁に江戸行きの願いを届け、許可をまたずして江戸へ出立。途中、朝命を拒もうした豊後岡藩主中川修理太夫の行列にたいし、薩長土三藩が圧力をかける事件がおきたため五十人組も土佐藩の一部隊としてこれに参加した。
その後、一行は京都に望月亀弥太ら数名を待機させ江戸へ下向。伏見で広田章次、小田原で坂本瀬平の殺害に関与しながら一一月一六日に江戸へ到着した。江戸では当初の予定通り容堂の護衛にあたったのち自然解散となる。
*……伍長の表記は各組に対応(例:二番組伍長=山本三治)
五十人組名簿 |
総頭 | 宮川助五郎 | 田所嶋太郎 | 島村寿太郎 | 公文藤蔵 |
曽和田伝左衛門 |
伍長(*) | 鎌田清次郎 | 山本三治 | 河野万寿弥 | 北代忠吉 |
田内衛吉 | 中岡光次 | 柳井健次 | 千屋金策 |
組士(一番) | 一瀬源兵衛 | 仲彦太郎 | 石川菊馬 | 中村恵三郎 |
大利鼎吉 |
組士(二番) | 沖野平吉 | 村上保二郎 | 依岡権吉 | 岡田啓吉 |
森下幾馬 |
組士(三番) | 庄村良達 | 田所庄之助 | 島地磯吉 | 村田忠三郎 |
組士(四番) | 尾崎幸之進 | 三瀬深造 | 池田宇太郎 | 小畑五郎馬 |
組士(五番) | 檜垣清治 | 大石利左衛門 | 望月亀弥太 | 川久保健次 |
組士(六番) | 村田覚吾 | 千屋寅之助 | 近藤亀弥 | 安岡斧太郎 |
安岡金馬 |
組士(七番) | 片岡団四郎 | 片岡佐太郎 | 谷脇省馬 | 高橋俊助 |
片岡盛蔵 |
組士(八番) | 市川次平 | 今橋権助 | 村上鶴助 | 長尾省吾 |
山崎広馬 |
(平成某年某月某日識)
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