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土佐藩概略

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軍事力

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関係諸隊

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功労

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幕末土佐藩

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新おこぜ組


■成立〜倒閣
嘉永二年〜文久二年四月一一日頃
■中心人物
吉田東洋
■備考
 吉田東洋が嘉永二年と安政二年に開設した私塾少林塾へ集った師弟たちが中心となって生まれた一種の非公式派閥。「おこぜ」とは貝の一種で、この貝を懐中に海や山に出れば、その地の幸に恵まれるという俗信からてんじ「おこぜ組に参加すれば思いのままの官途につける」とみる世人らから名付けられた蔑称。天保期に活躍した馬淵嘉平らの「おこぜ組」との対比上「新おこぜ組」とよばれる。
 東洋の藩政復職後、山内容堂の後援をえて門閥層との対立をつよめながら多くの藩政改革を強力に推進し後年、土佐藩が中央政界で活躍する経済的基盤を築きあげた。文久二年、朝幕間に対する意見のちがいから盟主ともいうべき東洋を土佐勤王党に暗殺され、新おこぜ組は失脚した。
 文久三年以降、容堂が主導する勤王党の獄にともない新おこぜ組を多くが藩政に復職、慶応年間に土佐藩が時勢を静観するさいには、その国力増強におおきく寄与した。
 当時から新おこぜ組に対する世人の評はもあまり芳しいものとはいえないが、幕末期において土佐藩が薩長につぐだけの国力を有せたのも、新おこぜ組の尽力によるところが極めて大きい。
 なお下記の名簿はあくまで作成した筆者の主観にもとずく名簿である点をお断りしておく。

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吉田東洋
吉田東洋
後藤良輔
後藤良輔
福岡藤次
福岡藤次
岩崎弥太郎
岩崎弥太郎

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新おこぜ組(あくまでも派閥的なもの)
吉田東洋後藤良輔福岡藤次野中太内岩崎弥太郎
井上佐市郎広田章次福岡宮内深尾弘人渋谷伝
末松務左衛門麻田楠馬朝比奈泰平市原八郎左衛門神山左多衛
松岡七助福岡精馬奥村又十郎長沢又七郎大崎健蔵
岡本小太郎小笠原健吉真辺栄三郎渡辺弥久馬由比猪内

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(平成某年某月某日識)

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