龍馬と新選組が互いに顔を会わせたとする確実な史料は見当たらない。これは戦闘に類する事件へ龍馬が顔を見せていないことや新選組の巡回区域などとも関係があろう。しかし断片的ではあるが両者の邂逅を匂わせる逸話は存在する。では、それを下に記そう。
●慶応元年四月もしくは六月
伏見に居た時分、夏の事で暑いから、一晩龍馬と二人でぶらぶら涼みがてら散歩に出掛けまして、段々夜が更けたから話しもって帰って来る途中、五六人の新選組と出逢いました。夜だからまさか坂本とは知らぬのでしょうが、浪人と見れば何でも彼でも叩き斬ると云う奴等ですから、故意私等に突当たって喧嘩をしかけたのです。すると龍馬はプイと何処へ行ってか分からなくなったので、私[楢崎龍]は困ったが茲処ぞ臍の据え時と思って、平気な風をして『あなた等大きな声ですねえ』と懐ろ手で澄まして居ると『浪人は何処へ逃げたか』などブツブツ怒りながら、私には何もせずに行過ぎて仕舞いました。私はホッと安心し、三四丁行きますと町の角で龍馬が立留て待て居て呉れましたかね『あなた私を置き去りにして余んまり水臭いじゃありませんか』と云うと『いんにゃそう云う訳じゃ無いが、彼奴等に引掛かるとどうせ刀を抜かねば済まぬからそれが面倒で陰れたのだ。お前もこれ位の事は平生から心得て居るだろう』と云いました
●慶応元年四月頃
坂本は高松太郎・千屋寅之助ら数人と嵐山に花見の帰途、会藩士が例の白鉢巻にて抜身の鑓を携え、二行になりて練り来るは、正に是れ浪人狩の出張とこそは覚えたれ。坂本は高松等を顧み「誰かあの中へ割って入る勇気があるか」と云いしに、流石に天誅の一度や二度は試みし人々も、何の答えもあらざりし。やがて近付くままに、坂本は路傍の小犬を取って抱きさまに、余念なく小犬に頬ずりして、脇目もふらず二行に練り来る鑓隊の真中へ歩み入るにぞ、高松等は自然と坂本の後へ真一文字に続きたり。会藩士は大の男が酔いたる体にて歩みかかりしかば、敢えて咎る者もなく、左右に開きて之を避けしにより坂本は難なく之を通り抜けたり。
他にも龍馬が薩長同盟のため上京した慶応二年一月、同行者 三吉慎蔵の日記には新選組が伏見まで出張し人別改めを行った旨を伝えているし、元治元年に安芸藩士丹羽精蔵と京都の堀川で新選組六人と斬り合いになったという話も丹羽精蔵の略伝中に見えている(事実関係は甚だ疑わしいが)。
ともかく龍馬と新選組の足跡には池田屋事件、龍馬暗殺、天満屋事件、近藤勇の斬首など間接的かつ微妙ながら、互いに影響を与えあっていたように思えてならない。
(平成某年某月某日識)