世に龍馬詠とされ、一般にもそう認知される短歌の数は二〇首あまり。その主要なものとして、『坂本龍馬桂小五郎遺墨』にみえる歌九首、龍馬書簡にみえる歌二首、短冊として知れる歌四首、『千里駒後日談』や『反魂香』など楢崎龍により伝えられる歌六首、『坂本中岡両氏遺墨紀念帖』にみえる歌一首、が知られている。
このうち坂本弥太郎家より京都国立博物館へ昭和六年(1931年)に寄贈された『坂本龍馬桂小五郎遺墨』収載歌(短歌九首に俚謡一歌をおさめる)は、東京大学史料編纂所所蔵大正六年(1917年)写本によると龍馬より乙女子に示せる和歌
である。これは同時代史料として最もまとまった龍馬詠にあたり、詠作時期や発信時期といった詳細は不明。ここではその推定に私見を一寸しめしたい。
貼りこみの遺墨は右図のとおり年次順には配置されておらず、年月日をここより推すのは難しい。まず下にその収載歌を通し番号をつけつつ順番にひく。
先日申てあげたかしらん世の中の事をよめる
さてもよに につつもあるか 大井川 くだすいかだの はやきとしつき
恋
きゑやらぬ 思ひのさらに うぢ川の 川瀬にすだく 蛍のみかは
みじか夜を あかずも啼て あかしつる 心かたるな やまほととぎす
○
文開く 衣の袖は ぬれにけり 海より深き 君が美心
世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる
春くれて 五月まつ間の ほととぎす 初音をしのべ 深山べの里
湊川にて
月と日の むかしをしのぶ 湊川 流れて清き 菊の下水
明石にて
うき事を 独明し の 旅□ 磯うつ浪も あわれとぞ聞
○
人心 けふやきのふと かわる世に 独なげきの ます鏡哉
龍馬詠草三(十)●
川の西にハ松二木、川の東ハ梅一木、というかへし
松もたのもしいが 風がふかんげな 梅ハ春くりや花もさく ヨイサ実モナルゲナ
新板けなしぶし
右の哥ハちと目あてがちがふたかしらん。おふかたあたりつろふのふし
これらが龍馬より乙女子に示せる和歌
であるならば、本詠草の発信時期も両者のあいだに手紙のやりとりがおこなわれていた期間にしぼりこむのが、流れとしては自然だろう。可能性としてもちろん文通期とは無縁の時期を想定することは可能だが、前後の消息もなしに短歌だけを送りつける状況というのは、行為として相当不自然に感じられる。まして三十一文字という短詩形の短歌(龍馬詠草一・二)にとって、独立書簡として短歌だけを発信するのは、歌の意図を伝えるうえで余計な困難がともなってしまうだけに、ここでは考慮の外におく。
まず龍馬・乙女間の文通期を複数の書簡より成るまとまりとして大別すると、以下の六期間にわけられる。あわせて和歌との関連で目のひかれる記述を個別にひいておこう。
先便御こしの御文御哥など、甚だおもしろく拝見仕候。私事ハ急用これあり、今日江戸へ参り申候間、其御被知かたがた先日の御文御哥さしあげ申候
かの小野小町が名哥よみても、よくひでりの順のよき時ハうけあい雨が不申。あれハ北の山がくもりてきた所を、内〃よくしりてよみたりし也
是よりおやべどんニもふす。[中略]哥本、新葉集とて南朝(楠木正成公などのころよしのニて出来しうたのほん也。)にてできし本あり。これがほしくて京都にて色々求候得ども、一向手ニいらず候間、かの吉村より御借りもとめなされ、おまへのだんなさんにおんうつさせ、おんねがい被成、何卒急ニ御こし可被下候
あの私がをりし茶ざしきの西の通りがある、其上ニ竹が渡してゑやら字やらなにか、とふしニ記し候ものあり、其中、順蔵さんのかきしものあり、御送り。そして短尺箱に(母上-父上の)御哥、おばあさんの御哥、権兄さんのおうた、おまへさんの御うたこれありけり。なニとぞ父上母上おばあさんなど死うせたまいし時と日と、皆短尺のうらへおんしるしなされおんこし
中路某の老母(神道学者奇人也)ハ実おもしろき人也。和歌などよくで来候
おばあさん、おなんさん、おとしさん、の御哥ありがたく拝し申候
うち人物紹介のながれで和歌にふれるだけの慶応二年一二月四日付をのぞくと、文久三年秋頃、元治元年六月二八日付、慶応元年九月九日付、慶応三年四月初旬、の四通が和歌への関心もたかく発信時期をうかがううえで手掛かり・目安になるだろう。
和歌の詠作時期を推定する手法には、歌の詞書・季語・地名歌枕などをたよりに、当該人物の行動足跡や肩書きなどを比較して、蓋然性のたかい時期に該当歌を当てはめてみるというものがある。
俚謡である詠草三をのぞくと、季語らしきものをふくむ歌は(二)蛍
、(三)やまほととぎす
(山ホトトギス)、(六)五月まつ間のほととぎす
、(七)菊の下水
の四首で、地名の知れるものが(一)大井川
、(二)うぢ川
(宇治川)、(七)湊川
、(八)明石
の四首である。
まず第一歌群(詠草一)の(一)〜(三)は大井川
とうぢ川
、蛍
とやまほととぎす
によって、京都・夏における詠作としれるだろう。夏四月から六月に龍馬が京都に滞在していたとされるのは、文久三年・元治元年・慶応元年・慶応三年で、さきにあげた四点の書簡とも年では一致する
第二歌群(詠草二)内の(四)〜(八)には五月まつ間のほととぎす
・菊の下水
・湊川
・明石
がキーワードとしてみえるものの、うち菊の下水
は季語としてではなく、あくまで楠木家をしめす象徴として詠みだされたものだろう。尊王・忠臣の権化楠木正成の楠木家は紋所を「菊水」とし、湊川における戦いで一族のおおくが死亡している。現在の湊川神社が創設されたのは明治五年(1872年)、計画は文久三年一一月以降、薩摩藩によって先鞭具体化し、幕末期をつうじて暫時展開されていった。龍馬存命時、故地に存在するのは「嗚呼忠臣楠子之墓」である。
(六)五月まつ間のほととぎす
は、そのまま五月待ちの四月に比定でき、(七)湊川
訪問は時期不明。生涯おおく神戸付近に足取りをのこす龍馬なので、いづれ足を運んではいるだろう。(八)明石
訪問が史料によって裏付けられるのは『明石藩日記』文久三年五月三〇日・六月一日・同二五日の三条々。湊川
もこれより顧みれば、明石へむかう西下中、五月下旬か六月下旬ごろの詠作だろう。
仮に一度目の五月下旬ごろに設定すれば、湊川の戦い(建武三年・延元元年-1336年-五月二五日)からほぼ527年目の作になるし、詩情的タイミングも申しぶんない。歌の配列から五月まつ(五月未然)→湊川(五月下旬以降)→明石(六月以降)の順もかたかろう。『海舟日記』二十九日 払暁着船、和田ヶ崎砲台、御修覆所、巡覧、神戸操練所、御取建所、一見
条にしたがえば、同日こそ時期としてもスンナリ当てはまるのではないだろうか。
後年も摂津や播磨沖にと往来しげき龍馬だが、通行手段はのちになると船運がもっぱら。湊川の流路と海ゆく船とでは摂津湾にそそぐ河口部以外(当時の湊川は現在の川崎重工業神戸工場付近で海にそそいでいたらしい)、接点にとぼしい。陸行きで湊川から明石へむかう龍馬の例を、そもそもこの日以外わたしは知らない。
詠草二にかんしては『明石藩日記』・『海舟日記』など史料にみえる蓋然性・歌の配列・詩情動機など諸理由から、文久三年制作とみてそう大過あるまい。
のこりの(四)・(五)・(九)は、付随書簡と見当づけられる最寄りの文久三年秋頃書簡に、先便御こしの御文御哥など、甚だおもしろく拝見仕候
とみえ、天誅組の壊滅をみなみなしようがわるいニつき京よりうつてを諸藩へおふせつけられ候ものなり[中略]あわれに存候
となげく心境から、(四)で文久三年三月以来つづく文開く
往復書簡の感動をうたい、(九)で京
(中央政局)や諸藩
の朝改暮変する(けふやきのふとかわる
)人心
について、犠牲となった旧友たちを念頭に、政局にはひとり
距離をおきながら、斯く嘆いているのではないだろうか。(五)の歌は、傍から観れば奇異・迂遠にうつるであろう龍馬の行動(つまり国を抜け、政局の中心からもはなれ、ひとり幕臣勝海舟に接近し、海軍振興による日本の立国を目指す)について述べた自己決意の歌と受けとりたい。孤独さという点でこの歌には(九)のひとり
と同想の部分があるだろう。
うえは予定調和的解釈であるが、もとより補足的な読み方とユルく受けてもらいたい。
詠草三は歌の詞書にかへし
(返し)の文字がみえており、まずは本詠草の前提になる文章がさきに想定されなければならない。詠草二・三を同時発送の文章とみれば先便御こしの御文御哥
への返歌ということになって落ち着きはいいものの、左図のとおり詠草二と一・参では用地が一致していない。詠草一・三を一往おなじ用紙かと判じえても(経年返歌の範囲内?)、詠草二だけは一瞥別紙にしかみえないのである。
詠草三は歌の詞書にかへし
(返し)の文字がみえており、まずは本詠草の前提になる文章がさきに想定されなければならない。詠草二・三を同時発送の文章とみれば先便御こしの御文御哥
への返歌ということになって落ち着きはいいものの、左図のとおり詠草二と一・三では用地が一致していない。詠草一・三を一往おなじ用紙かとは判じえても(経年返歌の範囲内?)、詠草二だけは一瞥別紙にしかみえないのである。
紙質の劣化で斯く違うのか、たまたま手持ちの用紙がきれたところで別紙に改めたものなのか、はたまた届いた御文御哥
に直接裏書いて返歌したものか、と憶測だけはたくましくなる。
こころみに和歌について言及のある先掲書簡五点を右にならべてみたが、ここにも詠草一・三と似た用紙はみとめがたい。強いて歌意だけをくみ関連付けなど出来ないこともないが、手段としてはどうしても弱いだろう。
(和歌の話題が本文中にみえない乙女書簡をふくめれば、文久三年五月一七日付・同六月二九日付・慶応三年六月二四日付、が比較的用紙は似通っているものの、断定材料に弱い点はかわらない)
本稿では無理に結論をいそがず、詠草一・三は保留、詠草二は文久三年の制作で、発送されたのは文久三年秋頃と観て結論にかえる。
最後にひだりの画像は、文久三年八月から秋頃にかけて発信されたとみられる書簡を三通ならべてみた。所蔵先が別々なことを考えれば、紙質差異も経年変化の範囲ないだろうか?
龍馬の手紙 講談社学術文庫 | 宮地佐一郎 | 講談社 |
追跡! 坂本龍馬 | 菊地明 | PHP研究所 |
検証・龍馬伝説 | 松浦玲 | 論創社 |
勝海舟全集(18) | 勝部 真長 (編集), 松本 三之介 大口勇次郎 | 勁草書房 |
坂本龍馬全集 増補四訂版 | 宮地佐一郎 | 光風社出版 |
龍馬の翔けた時代 その生涯と激動の幕末 | 京都国立博物館 | |
坂本龍馬関係資料 | 京都国立博物館 |
(平成二二年四月三〇日識/同年五月二日訂)